安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

最後まで誠実だった「織田信忠」信長から信頼を寄せられた後継者の人生とは

婚約は事実上破棄されてしまう

元亀3(1572)年、武田信玄は徳川家康の領地である三河(みかわ/愛知県東部)・遠江(とおとうみ/静岡県大井川以西)に進攻を開始しました。しかし、家康は信長の同盟者でもあり、これは信長と信玄の同盟を壊すことを意味していたのです。しかも、信玄は室町幕府将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の「信長包囲網」に呼応した上での作戦でした。

このため、信忠と松姫の婚約は事実上なかったことにされてしまいます。信玄はこの途中で陣没しますが、事態は変わりませんでした。そして、2人は心を通わせながらも、会うこともできないまま月日が流れていくこととなってしまったのでした。

武将としてのキャリアを着実に積み上げる

image by PIXTA / 12852974

元服した信忠は、父・信長に従い、多くの合戦を経験していきます。信長の天下取りへの戦いですから、休むことはまずなく、そのどれもが激戦となりました。そんな中で、信忠は武将として成長を遂げていきます。そして20歳になった彼は、父から家督を譲られ、織田家の当主となるのでした。

元服を果たしすぐ戦場に出る

時期に関しては諸説ありますが、天正元(1573)年ごろ、信忠は元服したと言われています。最初は「信重(のぶしげ)」と名乗っていました。

初陣は元服前か直後かははっきりしませんが、元亀3(1572)年の小谷城(おだにじょう)の戦いでした。これは、信長の妹で信忠にとっては叔母であるお市を嫁がせた浅井長政(あさいながまさ)が信長を裏切ったために起きた戦でしたが、この戦いと同時進行で行った朝倉氏攻めに信長が向かっている間、信忠は小谷城での抑え役を務めたそうです。

それからは、信忠は父に従い、父の野望である天下統一を目指す戦いに身を投じていくことになりました。

信忠軍団を指揮して経験を積む

信忠は、父・信長の主たる戦いにほとんど参加しています。その中でも、信長を10年も苦しめた石山本願寺との石山合戦や、その中で行われた長島一向一揆の殲滅戦など、熾烈な戦いは信忠の経験値を着実に積み重ねていきました。この時には、信忠は18歳ながらすでに一部隊を任されるほどになっており、信長が投入した主力武将たちと肩を並べて戦に臨んだのです。

信忠の統率下に入った武将たちは、信忠軍団のような形となり、戦場で武功を発揮し続けました。この軍団が成熟したことで、織田の兵たちは信長だけでなく信忠という頭領を得てさらに力をつけていくこととなったのです。

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