本能寺の変勃発、父を助けに向かうが…
甲州征伐を終えると、信長と信忠は豊臣秀吉(当時は羽柴)が行っている中国征伐へ援軍として向かうため、京都に滞在することになりました。信長は本能寺、信忠は妙覚寺(みょうかくじ/京都市上京区)に投宿しましたが、翌日の早朝、明智光秀が本能寺を襲撃し、本能寺の変が起きてしまいます。
本能寺で異変が起きたことを知った信忠は、すぐさま本能寺へと向かいますが、その途中で信長が自害したとの報せを受けました。そして家臣の進言を容れ、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の子・誠仁親王(さねひとしんのう)の二条新御所へ向かい、親王を逃がしたうえで籠城戦を図ることにしたのです。
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誠実さが仇となり、最後まで戦い命を落とす
しかし、信長も信忠も、率いていた手勢はほんのわずかだったのです。対する明智勢は1万とも言われており、いかに信忠が奮戦しても、力は及びませんでした。
もはやこれまでと、最期を悟った信忠は、勇敢に戦った小姓に「この世では恩賞を与えてやれないが、来世では必ず」と声を掛け、家臣に「自分の遺体は床板をはがしてその下に隠せ」と命じると、自害しました。26歳の若さでした。
もし、信忠が信長を助けに向かうことなく、豊臣秀吉や他の家臣の軍勢と合流していれば、彼が信長の跡を継ぎ、天下統一へと向かったのかもしれません。しかし、信忠はあくまで誠実だったがゆえに、父を助ける方を選んだのでしょう。誠実すぎた信忠の惜しい最期でしたが、彼の誠実さはそれだけではありませんでした。
松姫を迎えようとしていた
実は、信忠は元婚約者・松姫のもとへ迎えの使者をやっていたのです。それは本能寺の変が起きる直前のことでした。松姫は喜び、さっそく信忠のいる京都へと向かったのですが、その途中で悲報に接したのです。
その後の松姫は、出家して信松尼(しんしょうに)と号し、武田一族と信忠の冥福を生涯弔い続け、もちろん誰にも嫁ぐことはありませんでした。「信松尼」という号に、信忠の「信」と松姫の「松」を合わせたのでしょうか…。そうだとすればとても切ないですよね。
また、信忠は側室を持ち、子供ももうけていましたが、正室の座は空けたままでした。松姫をいつか迎えようと思っていたのでしょう。そんなところにも、信忠の誠実さを感じます。
身を滅ぼした誠実さ、だがそこが信忠の魅力
かつては、信忠はあまり有能な人物ではないという評価がなされていました。しかし現在はその評価を覆す説が多く出てきているそうです。信長を見捨てず、逃げなかった信忠の選択は、家の存続という面では間違いだったのかもしれませんが、人として誠実だったことの証だと思います。松姫とのエピソードが、それを裏付けているような気がしてなりません。