安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

最後まで誠実だった「織田信忠」信長から信頼を寄せられた後継者の人生とは

20歳にして父から家督を譲られる

信忠は休む暇もなく戦場に立ち続けました。天正3(1575)年には長篠の戦いで武田勢を破り、そのまま武田方の岩村城(岐阜県恵那市)を包囲します。ここの城主・秋山虎繁(あきやまとらしげ)の妻は、信長の叔母・おつやの方でしたが、信長は容赦しませんでした。信忠は信長の命令を受け、兵糧攻めを決行。形勢逆転を期して秋山方が仕掛けてきた夜襲を返り討ちにし、ついに開城へと持ち込んだのです。

この翌年、早くも信忠は父から家督を譲られ、岐阜城主となりました。父が健在とはいえ、20歳で織田家の当主となったのです。信長の正室・濃姫(のうひめ)の養子になったとも言われており、尾張のほか、岐阜城がある東美濃(岐阜県東部)を任されるようになりました。もはや武将としてひとり立ちを果たしたというわけです。

信長の評価を確固たるものにする活躍

戦に次ぐ戦を経験し、信忠は急速に成長を遂げていました。鉄砲を駆使する地侍集団・雑賀衆(さいかしゅう)を下し、信長に二度も謀反した梟雄・松永久秀(まつながひさひで)を討伐するなど、信長からも歴戦の勇将ぞろいの家臣団からも一目置かれるようになっていきます。

ただ、信長はそれでも信忠に対し、厳しい態度を取ることもありました。何でもそつなくこなす信忠を評し、「見た目だけ器用な奴など、愚か者と変わらん」と言ったり、能楽に入れ込んだ信忠から道具を取り上げ謹慎させたりということがあったのです。とはいえ、思い立ったら即実行という気質の信長が、信忠を廃嫡しようという動きをしなかったことは、やはり信忠への期待や信頼があったのではないかと思います。

甲州征伐の成功と本能寺の変

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武田氏を滅ぼすための甲州征伐の総大将となった信忠は、勢いを駆って攻め込み、見事武田氏を滅ぼすことに成功します。しかしその直後、彼の命は父・信長と共にはかなく消えることとなりました。運命の天正10(1582)年、本能寺の変がすぐそこまで迫って来ていたのです。

甲州征伐の総大将となる

天正10(1582)年、信長は武田氏にとどめを刺すため、甲州征伐を決行しました。信忠はその総大将に任ぜられ、3万とも5万とも言われる大軍を率いることになったのです。頼もしい信忠軍団はすでに10年近く行動を共にしており、信忠の手足となって快進撃を見せました。

信濃南部から怒涛の勢いで武田方の支城を落として進んだ信忠率いる織田軍。信忠は、高遠城(長野県伊那市)では陣頭に立ち、塀に登ってその上から指揮を執るなど、勇ましい姿を見せました。

信長からは「深追いはするな」と言われていたのですが、信忠は軍の勢いを削がないためにもそのまま進撃を続け、武田最後の当主・武田勝頼を天目山(てんもくざん/山梨県甲州市)に追いつめ、自害させたのです。

戦国最強とうたわれたこともある武田氏を滅ぼすという、大きな功績を挙げることに信忠は成功したのでした。

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