日本の歴史江戸時代

家康の息子「徳川秀忠」偉大なる父の影でどんな人生を送った?わかりやすく解説

恐妻家、そして真面目だった?

秀忠は、江の意向が働いていたかどうかはわかりませんが、側室を持つことはありませんでした。

ただ、一度だけ手をつけた女性との間に男子をもうけています。それが、後に家光を補佐して名を残す保科正之(ほしなまさゆき)です。

秀忠は江の目をはばかったのか、正之を実子として認知しませんでした。保科家に養子に出し、養育を頼んだのです。

また、秀忠が恐妻家である以上に真面目な男だったことを示す逸話もあります。

ある時、家康の元に1ヶ月ほど滞在することになり、家康は秀忠が退屈だろうと美女に菓子を持たせて訪問させました。要は美女とうまくやればいいということだったのですが、秀忠は女性の訪問を正装で出迎え、上座に座らせたあげく、菓子をもらうと「さあ帰られよ」と真面目くさって言い、出口へと案内したとか。女性は真っ赤になって帰っていったということです。

そんな真面目な秀忠ですが、そこがやはり跡継ぎとしてはふさわしいところだったのかもしれませんね。

関ヶ原の戦いでの失態と将軍就任

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関ヶ原の戦いが起きた際、秀忠は本戦に遅刻するという大失態をおかしてしまいました。その後江戸幕府を開き初代将軍となった家康の跡を受け、彼は2代将軍に就任します。父が大御所(おおごしょ)として君臨する中、彼はひたすら真面目に、堅実に与えられた職務を全うしていくのでした。

関ヶ原に向けて中山道ルートを進むが…

やがて豊臣秀吉が世を去り、父・家康が存在感を増すと、それを危惧する石田三成らとの間に不穏な空気が立ち込めます。そして慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いとなるわけですが、会津(あいづ/福島県)の上杉氏を討伐しに向かっていた家康と秀忠は、そこから関ヶ原へと引き返す形となりました。

これに際し、家康の本隊は東海道、秀忠の別働隊は中山道を進むことになります。秀忠の行く先には信濃(長野県)の上田城(うえだじょう/長野県上田市)があり、そこには父・家康も苦汁を舐めさせられたことがある老練な名将・真田昌幸(さなだまさゆき)が待ち構えていたのでした。

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