「殿中でござる!」松の廊下の刃傷沙汰
「赤穂事件」とは、主君・浅野内匠頭の切腹から赤穂浪士の討入まで、その期間は1年にも及びます。そのため、「江戸城刃傷沙汰」と「赤穂浪士討入」と、2分割にして語られることが多いです。まずは事の発端・江戸城内・松の廊下での刃傷沙汰について、事件の経緯を見ていくといたしましょう。
一大事!朝廷勅使の接待役が江戸城内で抜刀
「赤穂事件」の発端となった刃傷沙汰が起きたのは今から300年以上も前のこと。江戸時代中期、元禄14年3月14日(1701年4月21日)のことです。
この日、江戸城には、朝廷からの使者が来ていました。
毎年この時期、年賀のあいさつのお返しとして、朝廷から勅使がやってくる習わしになっていたのだそうです。
使者たちは3月11日に江戸にやってきて、数日にわたり様々な接待を受けていました。
勅使の接待役は当番制のようなもので、今回の担当が、赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)だったのです。
そして、こうした朝廷との行事での作法やしきたり、慣習などを教育する立場にあったのが、高家(こうけ)と呼ばれる役職に就いていた吉良上野介(きらこうずけのすけ)でした。浅野内匠頭と吉良上野介は、朝廷接待役としてコンビを組んでいたわけです。
浅野は地方の藩主。一方の吉良は江戸幕府内の様々な儀式や典礼を取り仕切る博識高い身分の家柄の人物。吉良上野介がブレインであり、浅野内匠頭は吉良の指示や指導を受けて実務をこなす。そんな間柄だったと推察されます。
両者は、長い期間をかけて、この日のために打ち合わせや準備を進めていたようです。
しかし事件は突然起きてしまいました。
3月14日のお昼ごろ。江戸城本丸の大広間から白書院の間の「松の廊下」で、吉良の後ろを歩いていた浅野内匠頭が、小さな刀で吉良の背中に切りかかります。刃先は振り返った吉良の額をかすめ、浅野内匠頭は逃げようとする吉良を追ってさらに2度切りつけたのだそうです。
江戸城で抜刀などもってのほか。しかも城内には朝廷勅使が来ています。時の将軍徳川綱吉は超激怒。その日のうちに浅野内匠頭に切腹が言い渡されます。
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パワハラか?浅野内匠頭が切りつけた理由とは?
浅野内匠頭はなぜ、吉良上野介に切りかかったのでしょう。
江戸城で刀を抜くなど言語道断であることは知っていたはずです。ではなぜ?疑問が残ります。
今日、時代劇などで描かれる「赤穂事件」では、吉良上野介がネチネチと浅野内匠頭をいじめたから、となっていることが多いです。
朝廷の接待に必要なことを教えてやる代わりに賄賂を要求されたが、藩の台所事情から吉良を満足させるだけの袖の下を渡せなかったことから不和が生じた、と描かれることも。現代にもありがちなことです。
古くから、歌舞伎の題材にもなっており、庶民により受け入れられやすいよう、やや誇張した演出が加えられています。そのため「ふてぶてしい悪役キャラの吉良」と「虐げられてかわいそうな浅野内匠頭」というキャラ設定が確立。確かにお芝居としては、そのほうが見ごたえがあります。
しかし、史実としての「赤穂事件」では、浅野内匠頭がなぜ吉良に切りつけたのか、はっきりとした理由はわかっていないのだそうです。
松の廊下の刃傷沙汰の際、浅野内匠頭を止めたと伝えられている梶川与惣兵衛なる人物が、自身の手記の中で、切りつける際に内匠頭が「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったのを聞いたと記しています。吉良上野介に対して何かしら恨み言があったことは間違いなさそうですが、具体的な内容についてはわかっていません。
浅野内匠頭は取り調べの際「気がふれたのではなく、堪忍できないことがあり刃傷に及んだ」と答えています。
何がそうさせたのか。浅野内匠頭は心の内を語ることなく、即日切腹。真相は闇の中です。
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主君の仇を!赤穂浪士47士による吉良邸討入
浅野内匠頭の切腹の後、赤穂藩にも事件の知らせが入ります。彼らが事件の全容を知るより前に、赤穂藩の取り潰しが決まり、急転直下、青天の霹靂、赤穂藩士たちは路頭に迷うことになるのです。一方の吉良はおとがめなし。喧嘩両成敗とは言えないこの状況に、赤穂藩士たちの思いはどこへ向かうのか。その後の流れについて見ていくことにいたしましょう。
不公平!?「赤穂藩は取り潰し」「吉良にはお見舞い」
刃傷沙汰の後、事は速やかすぎるほど速やかに行われました。
まず浅野内匠頭は即日切腹。
赤穂藩は現在の兵庫県にあたる場所で、江戸から馬を飛ばしても何日もかかる距離。四日ほどかけて早駕籠が着き、事の次第が赤穂藩に伝えられました。
このときはもう、赤穂藩の取り潰しも決まっていたのだそうです。
「お殿様は、朝廷接待のお勤めを立派に果たしておられることだろうなぁ」そんなことをのんびり考えていた家臣たちに、いきなり厳しい現実が突き付けられます。
江戸城内での抜刀、刃傷沙汰、そして切腹。いったい何が?赤穂藩は大混乱です。
筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は実務に追われます。
一方江戸では、吉良の処遇についても注目が集まっていました。
状況はどうあれ、当事者のひとりである吉良上野介。しかし吉良の処分はなし。そればかりか、将軍からお見舞いのお言葉が届いたと伝わっています。吉良が刀を抜かなかったこと、抵抗しなかったことなどが理由と言われていますが、吉良自身が高い身分だったからとの見方も。これじゃあまりに不公平では?と世論は赤穂藩側に傾きます。
赤穂藩にも、少し遅れて、吉良が生きていてお咎めなしであるとの状況が伝わりました。これは由々しき事。大石内蔵助を囲んで、藩士たちは意義を唱えます。城を明け渡さず籠城すべきとの意見もあがりました。
しかし最終的に、大石内蔵助は籠城案を却下。赤穂藩士たちは城を明け渡し、赤穂を後にします。
主君の仇討ちか泣き寝入りか?決断を迫られる大石内蔵助
一度はお取り潰しとなってしまった赤穂藩。城を出て、それぞれの道を進むこととなります。
しかし浪士たちの心の中には「主君の仇討ちを」「復讐を」という思いが残っていたのでしょう。大石内蔵助を中心に何度となく集まって会議を重ね、吉良討伐についての話し合いが続きます。
一方、吉良上野介は、一応お咎めはありませんでしたが、世間の厳しい声にさらされ、辞職せざるを得ない状況に。今まで住んでいた屋敷から、少し離れた場所にある本所松坂町(現在の墨田区両国)の屋敷に移るよう申し渡されます。
あれこれ陰口叩かれて、仕事も辞めさせられて、その上、江戸の中心地からだいぶ離れた場所に引っ越しをさせられて、吉良は吉良なりに制裁を受けていた、とも言えそうです。
こんな家に住んでいたら、いつ赤穂浪士たちが襲ってくるかわかりません。吉良は隠居を決意。隠居すれば江戸に住む必要もないし、身を隠すこともできます。
この顛末に焦ったのが赤穂浪士たちです。新しい吉良邸なら討入しやすそうだったのに、隠居なんかされた日には、どこに討ち入ったらよいかわからなくなってしまいます。
赤穂浪士たちは誰も、吉良上野介の顔を知りません。
ここから、赤穂浪士たちの苦難の道が始まります。吉良上野介討ち取り作戦。いつ、どこに吉良がいるか確かめ、確実に仕留めるには、綿密な計画と膨大な時間が必要だったのです。
決戦は12月14日!吉良邸討入とその後の赤穂浪士たち
浪士としての長く苦しい日々が続き、金銭的にも精神的にも浪士たちは疲弊していました。
そんな中、討入の日程が決まります。元禄15年12月14日(1703年1月30日)。血のにじむような努力と諜報活動の末、この日、吉良上野介が屋敷で茶会を開くことがわかったのです。
深夜、47人の赤穂浪士たちは大石内蔵助を筆頭に、吉良邸の門を木槌で叩き壊し、内部に侵入します。
火事を装った陽動作戦を敷きながら、吉良邸家臣たちの動きを封じ、吉良上野介を探して屋敷中を捜索。台所の奥に潜んでいた老人を槍で突いて殺害します。この老人、家臣と思しき者たちに守られるようにして隠れていたため、吉良邸の家来に顔を確認させ、吉良本人であることを確認したのです。
こうして無事、赤穂浪士たちは主君の仇討ちを成功させました。
時間にして二時間ほどだったと伝わっています。
討入を終えた浪士たちは、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ。明け方、午前六時ごろに吉良邸があった両国本所を出発し、高輪にある泉岳寺まで、距離にしておよそ10㎞。彼らは主君の墓前に吉良の首を供えました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、赤穂浪士たちに江戸幕府から、切腹の沙汰が言い渡されます。浪士たちの子供たちにも、遠島など厳しい沙汰が下りました。
この吉良邸討入の一件は、その後、主人に忠義を尽くす者たちの美談として後世に語り継がれることになります。
果たして忠義なのか、単なる暴動ではないのか。そして「あの首は本当に吉良の首なのか」など、様々な疑問を残しつつ、赤穂事件は幕引きとなります。