関ヶ原本戦に遅刻し、家康が激怒する
上田城に到着した秀忠らは、真田軍と交戦状態に入ります。この戦いが秀忠の初陣となったわけですが、これが実に難しい戦いでした。真田の巧妙な用兵の前に秀忠らは苦戦し、悪天候も相俟って行軍が遅れ、ついには9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかったのです。
これには家康が激怒。本戦から5日後にやっと到着した秀忠との面会を断固拒否したのです。
秀忠の脳裏には廃嫡すら脳裏をよぎったかもしれませんが、重臣・榊原康政(さかきばらやすまさ)などが取り成してくれたおかげで、なんとか家康の怒りを解くことができました。
その後、家康は重臣たちに対し、「誰を後継者にするのがふさわしいか」と尋ねたそうです。ある家臣は勇猛な秀忠の弟・松平忠吉を推し、ある者は兄の結城秀康を推しましたが、ひとり大久保忠隣(おおくぼただちか)が「武勇も大切だが、世を治めるには文徳も必要。ならば秀忠さまこそふさわしいのでは」と主張しました。家康もそれに納得し、やはり跡継ぎは秀忠だという思いを新たにしたのだとか。
父の後を受け、2代将軍となる
慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸幕府を開設します。それから2年後には隠居し、秀忠は第2代将軍となりました。とはいえ、家康は大御所として君臨しており、二元政治となっていたのです。秀忠は何につけても家康に配慮しなければなりませんでしたが、真面目な彼は不満をおくびにも出さずにいたそうですよ。
その一方で、彼は関ヶ原での失態を挽回しようと思い続けていたようです。
慶長19(1614)年の大坂の陣では、前回のような遅刻をしないようにとの思いからか、予想以上の強行軍で兵を動かしたため、兵たちが疲労困憊してしまい、それでかえって家康から怒られてしまったという出来事もありました。
しかし、そんなところも、秀忠がいかに真面目であったかが示されているエピソードだと思います。
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家康亡き後、幕府の基礎固めに尽力する
秀忠がもっとも能力を発揮したのは、合戦よりも内政面でした。幕府が創設されて間もないこの時代、秀忠は大名や公家などを統率することに心を砕きます。家康から受け継いだ幕府をしっかりと守り、育てて行かなければならないという決意を、真面目な彼は生涯貫き通したのでした。
為政者としての手腕を発揮
大坂の陣では本陣に攻め込まれるなど、やはり武将としての才能が決して豊かではなかったと思われる秀忠。父親世代とは違い、合戦経験が少なかったということもあると思います。ただその一方で、武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定に着手するなど、家康存命のころから内政には手腕を発揮していました。
家康の死後には満を持してリーダーシップを発揮するようになり、本多正純(ほんだまさずみ)や福島正則(ふくしままさのり)など有力大名を改易するなど、将軍の権威を示すようになります。また、実の弟たちを御三家として各地に配置し、幕府の体制をさらに強固なものにしていったのです。
また対外政策や朝廷への力も強めていき、外国船の来航を長崎と平戸のみに限定したり、娘の和子(まさこ/かずこ)を後水尾(ごみずのお)天皇に入内させたりなど、為政者として精力的に活動しました。