ドイツヨーロッパの歴史

多くの歌曲や未完成交響曲などを残した「シューベルト」を元予備校講師がわかりやすく解説

中学校の音楽の教材で有名な魔王。この曲は19世紀前半に活躍した音楽家、フランツ=シューベルトの作品です。シューベルトはドイツ歌曲を多く作曲し、歌曲王とよばれました。貧しい暮らしの中、たくさんの名曲を作曲したシューベルトは友人たちの支援を受けつつ音楽家として活動します。しかし、1828年11月、31歳の若さでこの世を去りました。今回は音楽家シューベルトの生涯とシューベルトの作品について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

シューベルトの生涯

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18世紀末、シューベルトはオーストリアのウィーン近郊に生まれました。時はまさにナポレオン戦争の真っ最中でヨーロッパは激動のさなかにあります。幼いころから音楽の才能を示したシューベルトは奨学金を獲得。宮廷学長サリエリの指導下にあった寄宿制神学校に入学します。学校を出たシューベルトは多くの作品を残しました。また、友人関係に恵まれ、音楽活動を支えてもらいます。1828年、シューベルトは友人たちに将来を嘱望されながら早すぎる死を迎えました。

生い立ちと合唱団時代

1797年、シューベルトはオーストリアのウィーン近郊に生まれました。父はテオドール。アマチュア音楽家で、息子たちに音楽を教えます。

シューベルトが7歳になると、シューベルトの才能は父の手に余るようになり、リヒテンタール教会の聖歌隊指導者であるホルツァーに預けられました。シューベルトは聖歌隊の建物の隣にあるピアノ倉庫で自由にピアノの練習をおこないます。

1808年、シューベルトはウィーンの寄宿制神学校に通うための奨学金を獲得しました。この学校はウィーン学友教会音楽院の前身となる学校で、宮廷学長のサリエリの指導下にあります。

寄宿制神学校時代、貧しくて五線譜も買えないシューベルトに対し、友人たちは五線譜を買い与えるなど支援。シューベルトを励ましたといいます。

1813年、変声期を迎えたシューベルトは少年合唱団に所属することができなくなり学校を出ました。

多くの作品を残した歌曲王

合唱団を出てから、シューベルトは父の音楽学校で教師として働きます。しかし、あまり性に合わなかったようで1816年には教師の職を辞めてしまいました。その後、シューベルトは作曲活動を中心に生活するようになります。

シューベルトは31歳で亡くなるまで次々と曲を作曲。現在確認されているだけでも1000曲以上を作曲したことがわかっています。

分野別にみていくと、交響曲が13曲。この中には「未完成」交響曲も含まれます。多数の管弦楽曲やオペラも作曲していますが、演奏される機会はあまりないようですね。弦楽四重奏曲やピアノソナタも数多く残していますよ。

シューベルトの作品で最も多く作曲されたのがドイツ歌曲であるリート。シューベルトの作品の半分以上を占めています。

『美しい水車小屋の娘』、『冬の旅』、『白鳥の歌』はシューベルトの三大歌曲集といわれ、演奏頻度も高いですね。

シューベルトを支えた友人たちとシューベルティアーデ

音楽学校の教師を辞め、作曲中心で生計を立てていたシューベルトは決して裕福とは言えませんでした。それでも、シューベルトは多くの友人に恵まれます。

1814年にシューベルトと知り合った詩人のマイアフォーファーやシューベルトに音楽活動への専念を提案した法律学生のショーパー、有名なバリトン歌手だったフォーグルなどとの交友が知られていますね。

また、裕福な商人だったゾンライトナー家はシューベルトを自宅に招き、シューベルトに自宅を自由に使わせます。シューベルトの音楽を好んだ友人たちは、しばしば夜会を催しシューベルトを称える音楽会を開きました。

この音楽会はシューベルティアーデとよばれます。このシューベルティアーデという言葉はシューベルトの音楽会の代名詞として現代でも用いられることがありますよ。

31歳の早すぎる死

1828年、シューベルトは体調を崩します。11月12日、シューベルトは友人のショーパーに宛てて手紙を書きました。それによると、シューベルトは11日間何も口にできず何を食べて飲んでも吐いてしまうと訴えています。

11月14日、シューベルトの病状は急速に悪化。高熱にうなされ重体となりました。11月19日、シューベルトは兄の家で亡くなります享年31歳。あまりに若すぎる死でした。

シューベルトの遺体は、シューベルトのたっての希望で尊敬するベートーヴェンの墓の隣に埋葬されます。現在、シューベルトの墓はウィーン中央墓地にあり、ここでもベートーヴェンの墓の隣にありますよ。

シューベルトの死因は魚料理が原因の腸チフスとも、梅毒治療のために使われた水銀だともいわれていますが定かではありません。

音楽史におけるシューベルトの立ち位置

シューベルトはモーツァルトやベートーヴェンに代表される古典派と次の時代に流行するロマン派の橋渡しをした作曲家だと評されます。

楽曲の内容や楽譜の書き方である記譜法などは古典派のものを踏襲していますが、彼の生き方は宮廷のお抱え音楽家ではなく市井の中で作曲で生計を立てたという点では、ロマン派の作曲家たちに近いといえるでしょう。

特に、ドイツ語を用いた歌曲へのこだわりは他の追随を許しません。ロマン派の大家であるウェーバーもそうですが、シューベルトもドイツ語歌詞に強くこだわりました

ドイツの偉大な詩人であるゲーテの詩に曲を付けた「魔王」は典型的なドイツ歌曲ではないでしょうか。多くのドイツ歌曲(リート)を作曲したシューベルトが歌曲王と呼ばれるようになったのも当然のことだと思います。

よく知られているシューベルトの作品

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シューベルトはたくさんの作品を残しましたが、日本でもよく知られている曲も多数あります。音楽の教科書の常連である「魔王」や「のばら」、曲名が印象的な「未完成」交響曲、美しい旋律に魅了される「鱒」、代表的な子守歌といってもよいシューベルトの「子守歌」。曲名でピンと来なくても、聴くと「ああ、知っている」となる曲の数々です。今回は上記の5つについて駆け足で紹介しますね。

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