[再登場]足利義稙(義材)(あしかがよしたね)1508年~1522年
すったもんだの末、将軍に返り咲いた義稙。この人を「十二代将軍」とカウントするとややこしいことになりそうなので、今回は十代将軍が再登場した、ということにします。
しかし義稙の時代も、有力大名たちが権力を握っており、義稙が政治に介入する余地はなくなっていました。大名たちとの対立を繰り返し、やがて義稙は西方へ追いやられてしまいます。晩年は阿波国(現在の徳島県のあたり)へ流れつき、死去。享年58歳。少々語弊がありますが、意外と長生きした将軍でした。
[十二代]足利義晴(あしかがよしはる)1522年~1547年
次に将軍の座に就いたのは、義澄の息子の義晴。就任時の年齢はわずか11歳でした。
当然、義晴にも居場所はありません。幕府の中は、有力大名たちによって動かされています。
義晴は何度も幕府から追い出されたり逃げ出したりして、近しい家臣たちとたびたび近江(現在の滋賀県のあたり)へ逃れていました。義晴が近江に逃げ込んだ状態を「近江幕府」などと呼ぶこともあります。
でもこの人、35歳まで、およそ25年間も将軍を務めました。家臣に好き放題されながらも、意外と長く務めたことになります。
[十三代]足利義輝(あしかがよしてる)1547年~1565年
次に将軍となったのは、義晴の息子の義輝です。
このころになると、伊達氏や北条氏、毛利氏、今川氏、島津氏など、のちに戦国時代を突き動かす武将たちがめきめき頭角を現してきます。義輝は彼らと交流を深め、室町幕府復権を目指しました。
また、かなりの剣豪だったとも伝わっています。塚原卜伝(つかはらぼくでん:戦国時代の剣士・兵法家)から直々に指導を受けたこともあるのだとか。時代が時代ならよい将軍になったかもしれませんが……。最期は大軍に襲われて命を落としてしまいます。
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[十四代]足利義栄(あしかがよしひで)1568年~1568年
義輝を疎ましく思っていた有力大名たちに担がれて将軍職に就いたのが、義輝のいとこにあたる義栄でした。
しかしここに、新たな敵が現れます。天下統一を目論む織田信長です。
信長は義輝の弟の義昭を将軍にしようと画策。京都に入り、義栄を都から追い出してしまうのです。
将軍就任からわずか8か月。追い出された義栄は阿波国へ逃れ、病死してしまいます。
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[十五代]足利義昭(あしかがよしあき)1568年~1588年
織田信長に担がれて将軍に就任したのが、室町幕府最後の将軍・義昭です。
義昭も跡目争いの影響で都を追われ、長い間放浪生活を余儀なくされていました。信長の後ろ盾があって幕府に戻ることができましたが、まもなくその信長と仲たがい。ほかの戦国武将や権力のある名門寺院と手を組んで信長を追い出そうとしますが、逆に信長の怒りを買うことになり、都から追い出されてしまうのです。
義昭が都を追い出されたのが1573年。ここまでを「室町時代」とするのが一般的です。
しかしそのあとも、備後国(現在の広島県のあたり)に「鞆(とも)幕府」と呼ばれる亡命政府を立て、ひそかに都への復帰の機会を狙っていました。
将軍職を辞したのは1588年。豊臣秀吉の天下になってからも1万石の大名として認められ、1597年に61歳でこの世を去るまで一大名として余生を送りました。
跡継ぎ争いで揺れまくって戦国時代へ・室町幕府の光と影
徳川将軍も同様ですが、一文字違いで名前が似ているのでなかなか覚えにくいところが難点。でも、室町幕府とは終始、跡目争いに明け暮れた一族だったことが改めて分かりました。庶民の暮らしなどほったらかしだったのかと思うと、戦国時代が始まっても致し方ないのかと……。でも一方でどの将軍も、足利家を絶やさず継続させなければという使命感を持っていたのでしょう。