南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

「室町幕府」を読み解く!15人の足利将軍から見る日本の歴史

[七代]足利義勝(あしかがよしかつ)1442年~1443年

義教の死の後、細川家など有力大名たちの支持のもと、わずか9歳で征夷大将軍となったのが、義教の息子の義勝です。

しかし実際の政治は、細川家をはじめとする有力大名が行っていました。

さらに義勝は、就任後たった8ヶ月で亡くなっています。死因は落馬説、重病(赤痢)説、暗殺説などさまざま。悲劇の将軍と呼ぶにふさわしい生涯と言えそうです。

このあたりから、足利将軍の力は少しずつ弱まっていったものと考えられています。

[八代]足利義政(あしかがよしまさ)1449年~1473年

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義勝亡き後、将軍職に就いたのが、義教の息子であり義勝の弟にあたる義政です。

応仁の乱の原因はこの人にある、とも言われている足利義政。奥さんはあの日野富子です。

義政が将軍になることが決まったのは8歳のとき。14歳で元服をして、晴れて将軍に就任します。

この頃になると、将軍より家臣や大名たちのほうが発言権が強く、義政はみんなの言いなり。「跡継ぎを決めとかないと揉めるから!」と言われて弟を後継者にすると言ったと思えば、その後子どもが生まれたので日野富子から「うちの子が次の将軍よね!」と詰め寄られてはいそうですねと言ってしまう。周囲は弟派と息子派に割れて争いが激化。京都中が火の海となる応仁の乱が始まってしまうのです。

そんな状況に嫌気が差した義政は、将軍職を辞して現実逃避。晩年は東山に引き篭もります。無責任なようにも可哀想な感じもしますが……。ただ、文化芸術面での義政の評価は高く、銀閣寺に代表されるようなわび・さびを重んじた「東山文化」を確立。将軍でなく芸術家として生まれていたら、成功できたのかもしれません。

[九代]足利義尚(あしかがよしひさ)1473年~1489年

応仁の乱(1467年~1478年)真っただ中の1473年、将軍職を放り出した義政の代わりに征夷大将軍の座に就いたのは、義政の弟ではなく息子のほう、義尚でした。

就任当時の年齢はわずか9歳。実際には、母・日野富子の実家である日野家が政治を執り行っていたと考えられています。

応仁の乱の後、室町幕府の威厳は急落。若き将軍は名誉回復に奔走しますが、そのさなか、25歳の若さで病死してしまうのです。

[十代]足利義材(あしかがよしき)1490年~1493年

若い義尚には実子がなかったため、いとこにあたる義材が養子に入り、将軍に就任します。

義材の父は、義政が後継者にするとかしないとか優柔不断なことを言って翻弄された弟・足利義視です。その息子が、足利家の窮地を救うべく十代将軍となります。皮肉なものです。

このときは義材という名前でしたが、のちに義稙(よしたね)と改名。しかし就任後ほどなくして、家臣たちに裏切られ、クーデターを起こされて龍安寺に幽閉されてしまいます。

[十一代]足利義澄(あしかがよしずみ)1495年~1508年

義材が追放された後、義材や義尚のいとこにあたる義澄が将軍となります。

義澄は一度出家して地方にいましたが、このころになると、幕府を裏で操っていた日野富子が亡くなり、家臣たちによる争いはさらに激しさを増していたようです。

さらに、一度将軍の座を離れた義材が義尹→義稙と名前を変えて復活。義澄と将軍職をめぐって対立するというとんでもない事態に陥ります。

義稙との争いのさなか、義澄は病死。32歳の若さでした。

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