三国時代・三国志中国の歴史

三国志一の武勇を誇るも裏切りの連続で信用を失った「呂布」虎狼の武将について元予備校講師がわかりやすく解説

丁原から董卓に主君を変える

姓は呂、名は布、字は奉先。『三国志』呂布伝によると、呂布は并州五原郡、現在の内モンゴル自治区の包頭市に生まれます。呂布は若くから弓や馬の腕前に優れていました。呂布の武勇を知った丁原は呂布を取り立てて配下の武将とします。

189年、大将軍の何進は丁原をはじめ、有力武将を都に呼び寄せました。呂布も丁原に従い都である洛陽に入ります。

丁原と同じころに都に入った董卓は、呂布の武勇に目を付けました。董卓は配下の武将李粛に命じて呂布を勧誘させます。李粛が呂布と親しい間柄だったからです。『三国志演義』では李粛は名馬である赤兎馬を呂布に送って寝返らせました。呂布は丁原の兵士を終結させ董卓に味方します。

赤兎馬は正史『三国志』にも登場する名馬で、呂布の愛馬として知られました。『三国志』は呂布の武勇と赤兎馬を「人中有呂布 馬中有赤兎」とたたえます。赤兎馬に乗り華々しく戦闘をおこなう呂布の姿は魅力的に映ったかもしれませんね。

反董卓連合軍との戦い

丁原を殺害し、その軍を奪った呂布は董卓に寝返りました。董卓は呂布を必要とし、父子の関係を結びました。呂布の武芸は並ではなく、弓術・馬術にも優れていたため前漢の武将である李広になぞらえて飛将と称されます。

都で圧倒的な軍勢を率いることとなった董卓は少帝を廃して献帝を即位させました。朝廷の最高実力者となった董卓は都の富豪たちの財産没収や農民たちへの略奪・暴行など悪行の限りを尽くします。

董卓の暴政に反発した袁紹・袁術・曹操・孫堅などは連盟して反董卓連合軍を編成。加盟した諸侯は都に向けて兵を進めます。これを知った董卓は都の洛陽を焼き払い、都市を破壊。自分の本拠地に近い長安へと遷都しました。

戦いは一進一退でしたが、陽人の戦いで呂布は同僚である胡軫と以前から仲が悪かったため、協力して戦うことができず孫堅軍に敗北します。

董卓暗殺と長安脱出

反董卓連合軍の曹操は長安へと退いた董卓軍を追撃します。しかし、曹操は董卓軍の武将徐栄の軍に敗れてしまいました。反董卓連合軍は長安へと退いた董卓を深追いせず、洛陽を占領したこの段階で解散してしまいます。

長安へと遷都した後も董卓の暴政は続きました。このころ、呂布と董卓の関係が悪化。悪化の理由は諸説あります。些細なことで董卓に殺されそうになったとか、董卓の侍女と密通していたなどといったことが挙げられていますね。

『三国志演義』に登場する王允の養女貂蝉(ちょうせん)のモデルは董卓の侍女ではないかともいわれます。いずれにせよ、関係が悪化し身の置き所がなくなった呂布は朝廷の重臣である王允と共謀し董卓を殺害しました。しかし、董卓配下の武将たちの反撃に遭い長安から脱出せざるを得なくなります。

群雄の一人となった呂布

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長安脱出後、呂布は中国各地を放浪します。ある時は袁紹と共に山賊と戦い、ある時は袁術を頼ろうとするなど各地を転々としました。曹操が父の仇をとるため徐州に攻め込むと、空き城同然となった兗州に攻め込みます。呂布は引き返してきた曹操と戦いますが敗北。徐州の劉備を頼りました。しかし、呂布は劉備を徐州から追い出して徐州を乗っ取ります。その後、劉備は曹操と共に呂布を攻め、呂布は劉備・曹操連合軍に敗退しました。

兗州(えんしゅう)侵攻

兗州を支配していた曹操に仕えていた陳宮は張邈らとともに曹操への反逆を計画します。その時、盟主として担ぎ上げられたのが呂布でした。

曹操が主力軍を率いて徐州に攻め込むと、兗州はがら空き同然となります。呂布・張邈・陳宮らはこの機を逃さず反乱を起こしました。呂布軍はあっという間に兗州を席巻。あとわずかで全城陥落というところでしたが、曹操軍の軍師荀彧の必死の防衛によりかろうじて数城は陥落を免れます。

その間、徐州から兵を引いた曹操が戻ってきました。呂布と曹操は1年余りにわたって兗州で激闘を繰り広げました。途中、干ばつやイナゴの害があったため、両勢力とも相手に致命傷を与えることができません。

曹操は呂布打倒のため袁紹の支援を受け兵力を集結させます。呂布と曹操の決戦は鉅野の地で行われ曹操の勝利に終わりました。呂布は徐州の劉備のもとに落ち延びます。曹操は最大の危機を脱しました。

徐州乗っ取りと轅門射戟(えんもんしゃげき)

兗州の東にある徐州は、陶謙という人物が支配していました。陶謙の死後、曹操との戦いで援軍に駆け付けた劉備が徐州を支配することになります。呂布は徐州の劉備のもとに身を寄せました。

劉備が南方の寿春を本拠地とする袁術と戦うために徐州を出陣すると、呂布は空城となった徐州を乗っ取ってしまいます。行き場を失った劉備は呂布に降伏。呂布は劉備を徐州南西の豫洲刺使(州知事のような官職)に任じ、自らは徐州を支配します。

袁術が劉備を攻めた時、呂布は両者を仲裁しました。この時、呂布は150歩離れた場所の戟(三国時代の武器)を弓で射て、矢が命中したら両者は兵をひくと約束させます。呂布は見事に戟を射落とし、劉備・袁術両軍は兵を引きました。このことを轅門射戟といいます。

その後、呂布と劉備の中は悪化。呂布が劉備を攻めたため、劉備は曹操のもとに逃げました。

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