三国時代・三国志中国の歴史

三国志一の武勇を誇るも裏切りの連続で信用を失った「呂布」虎狼の武将について元予備校講師がわかりやすく解説

敗北と死

呂布は劉備と戦う一方で、たびたび袁術とも戦いました。袁術が大軍で徐州を攻めた時、呂布は袁術の主力軍を壊滅させます。かつて、兗州で呂布に苦戦した曹操は勢力を拡大させ、徐州攻略の機をうかがっていました。

呂布と劉備が争い、劉備が自分のもと逃げ込んでくると曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込みます。徐州西部の彭城を攻め落とした曹操軍は徐州中央部に位置する下邳(かひ)城に立てこもりました。

曹操軍は下邳城を包囲しますが、守りが固く攻め落とせません。曹操は時間のかかる攻城戦をあきらめ、一時撤退も考えましたが、軍師の荀彧・郭嘉らが下邳城の水攻めを提案したため、実行に移しました。これにより曹操軍は圧倒的に有利になります。

水浸しになり城を守るのが難しくなったことから下邳城内の武将たちは呂布を見限り、呂布を捕縛して曹操に降伏しました。

曹操の前に引き据えられた呂布は、曹操に自分を配下に加えないかと提案しました。しかし、傍らにいた劉備に「丁原や董卓がどうなったか、考えるべきだ」と進言され曹操は呂布の処刑を決断します。

自らの武勇を活かしきれなかった呂布の最後

三国志随一の武勇を誇りながら、度重なる裏切り行為で信頼を失った呂布は曹操に敗北し一命を終えます。『三国志』の著者である陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中にあった」と呂布を表しました。たぐいまれな武勇で最強の騎兵指揮官だった呂布ですが、目先の利益に目を奪われすぎて自分の可能性を縮めてしまったのかもしれませんね。

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