義隆が寵愛した陶晴賢
武断派の筆頭は、大内氏の譜代の家臣である陶晴賢でした。晴賢は若いながらも武勇にすぐれ、尼子氏との戦いでも勝利をおさめるなど、若手の期待のホープから重鎮へと出世を遂げていたところでした。
実は、晴賢は、若い頃たぐいまれなる美少年として有名でした。そして、美少年を小姓として寵愛することを好んだ義隆は、すぐに彼を召し抱え、重く用いるようになったのです。馬を飛ばして遠い距離をものともせずに会いに行ったこともあったそうですよ。
晴賢が元服したことで2人の特別な関係は終わりを告げますが、以降、晴賢は義隆に忠誠を尽くす武将として、大内氏の中枢で大きな存在感を示すようになっていったのです。
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楽勝ムードが一変、尼子に大敗を喫す
陶晴賢ら武断派の強烈な後押しにより、尼子征伐へと乗り出した義隆は、天文11(1542)年、月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いに臨みました。尼子氏に対し3倍近い兵力を動員していたため、大内軍にはどこか油断があったのかもしれません。
それに対し、尼子軍は地の利を生かしたゲリラ戦を展開し、大内軍を翻弄しました。そして、思わぬ味方からの寝返りが発生し、大内軍は大敗してしまったのです。
命からがら逃げ出した義隆に、さらなる悲報が追い打ちをかけました。養子ではありますが、将来を期待し跡継ぎにと目していた大内晴持(おおうちはるもち)を敗走中に失ってしまったのです。
武断派に担がれたとはいえ、遠征を強行したのは義隆。大きな失敗に終わったこの出雲遠征で、義隆は、多くのものを失ってしまいました。それは養子・晴持だけではなく、義隆自身の闘争心だったのです。
公家文化への傾倒が破滅を招く
尼子氏との戦で大敗を喫した後の義隆は、戦に興味を失い、日々公家たち共に和歌や能楽などに耽溺する毎日を送るようになってしまいました。政治を丸投げされた文治派の台頭によって、陶晴賢ら武断派は日に日に不満をためこんでいきます。そして、それに対して何の対処もしなかった義隆は、ついに陶晴賢に謀反を起こされ、追いつめられるのです。
戦う心を失い、公家文化へ傾倒する
尼子に大敗し、養子の晴持を失った義隆は、これ以降、めっきりと変わってしまいました。かつての野心あふれる勇壮な姿は見る影もなく、戦には背を向け、ひたすら公家文化へと没頭していったのです。毎日のように歌会を催し、能楽を楽しみ、まるで公家と変わらないような生活になってしまいました。
それは文化の成熟という点ではプラスになりました。明との貿易を行い、ザビエルから南蛮渡来の品々を手に入れ、西の京都・周防は華やかな芸術の都となったのです。ただしかし、義隆の態度は放蕩といっても差し支えないものでしたし、何より、かつての彼を知る武断派たちの危機感をあおり立てたのでした。
文治派と武断派の対立が深まる
義隆が公家のお遊びに興じているだけなら良かったのですが、そのために増税がなされ、領民は苦しみました。また、義隆は政治を文治派にほぼ丸投げしたため、家中では文治派が台頭してきたのです。
それは、陶晴賢ら武断派にとって面白くはありません。彼らは義隆に反発し、文治派への敵意を強めていきました。特に、義隆が重用した相良武任(さがらたけとう)に対しては、暗殺の噂がたびたび流れるほどで、武断派と文治派の緊張状態はほぼ頂点に達していたのです。
陶晴賢との関係が悪化
武断派筆頭・陶晴賢は、義隆の軟弱な態度に憤り、徐々に関係を悪化させていました。相良武任らはそんな晴賢に謀反の匂いをかぎ取り、義隆に対して晴賢の討伐を進言することもたびたびあったのですが、義隆は関係が悪化しているとはいえ家臣である晴賢を積極的に討とうとはしなかったのです。もしこの時なんらかのアクションを起こしていれば、義隆を待ち受ける将来は多少なりとも違ったものになったかもしれません。
義隆が晴賢を排除しないことを知ると、今度は相良が身の危険を感じて出奔してしまいました。後に彼は戻りますが、これで晴賢と相良、晴賢と義隆の関係はもはや修復不可能な状態となります。晴賢は自分の城に引っ込み、出仕もしなくなってしまいました。
城に籠もり、不穏な沈黙を続ける晴賢に対し、さすがに義隆も警戒心を強め、武装を始めます。それに対し、晴賢は水面下で毛利氏や九州の大友氏に密書を送り、謀反の準備を完成させつつありました。