室町時代戦国時代日本の歴史

公家文化に入れ込み過ぎて家を滅ぼした「大内義隆」はどこで間違ったのか

陶晴賢の謀反によって敗死を遂げる

そして天文20(1551)年、ついに晴賢が義隆に対して挙兵します。「大寧寺の変(たいねいじのへん)」の勃発でした。

晴賢の兵は義隆の領地にあっという間に侵攻してきましたが、義隆はなかなか動こうとはしませんでした。戦場から遠ざかって久しく、勘が鈍っていたのでしょうか。彼は、自分に迫る危機が命にかかわるものだという認識が薄かったのです。

やっと腰をあげたときには、すでに遅すぎました。義隆に付き従うものはどんどん減っていき、彼は大寧寺(山口県長門市)に追いつめられ、そこで自害して果てたのです。幼い息子も殺されてしまいました。義隆と共に逃げた公家たちも悲惨な最期を遂げています。

その後、陶晴賢によって大友氏から迎えられた大内義長(おおうちよしなが)が当主の座に就きますが、晴賢の傀儡にすぎませんでした。そして晴賢もまた毛利元就の前に敗れ去ると、大内氏は空中分解し、義隆の死から4年後、あっけなく滅亡を迎えることになるのです。

ひとつの敗北で運命が変わった大内義隆

image by PIXTA / 9177389

月山富田城の戦いでの敗北が、大内義隆の悪い方へのターニングポイントとなってしまいました。彼にもしもう少しの気骨さえあれば、大内氏は態勢を立て直し、中国地方の覇者となっていたかもしれません。陶晴賢は義隆に謀反を起こしましたが、かつての覇気あふれる主君に戻ってほしいと内心では思っていたのではないでしょうか。

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