足軽から天下人になった男【豊臣秀吉】
日本の歴史上、ここまで立身出世を果たした人物はいないでしょう。秀吉の出自は、半農半士の紛れもない足軽の家でした。
自らの能力をフルに駆使して出世の階段を登り詰めていきますが、天下を目の前にした時、立ちはだかったのが身分の壁でした。実力だけでのし上がってきた彼にとっても、足軽出身という事実は変えようがありません。
そこで秀吉が考え付いたのが朝廷の権威を利用することでした。折しも後陽成天皇の即位と時を同じくして秀吉は関白となっていますが、位階人臣を極めることで、朝廷の代弁者としての地位を確立したのです。いわゆる「秀吉の言葉は天皇の言葉。だから誰も逆らうことは許されない。」ということ。
秀吉はさらに正親町天皇の孫、八条宮を養子とし、皇室との繋がりを確固たるものにしようとしました。源氏でもなく平氏でもない一介の足軽出身の秀吉にとっては、その拠りどころは朝廷にしかなかったということなのでしょう。
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元老中の元老と呼ばれた国軍の父【山縣有朋】
明治維新後に総理大臣はじめ要職を歴任し、「元老中の元老」とも呼ばれた山縣有朋。彼は長州藩の中間(ちゅうげん)の家に生まれています。中間とは足軽以下の身分の者でした。
吉田松陰の松下村塾で短い期間なれど多くを学び、高杉晋作と知り合うことで奇兵隊にも参加。幕末には長州征伐や戊辰戦争において名を挙げ、明治維新後は陸軍の基礎を作り、まさに国の柱石として隠然たる力を持ちました。
さらに日清・日露の大きな戦いをめぐる難しい国際情勢の中で、彼が率いた長州閥は大きな国難を乗り切ったといえるでしょう。
しかし彼の死後、山縣が手塩にかけて育て上げた陸軍は破滅の道を辿ることになるのです。終戦の際、昭和天皇がおっしゃった「この戦争に山縣や大山がいてくれたら。」という言葉を、泉下の山縣はどう聞いたでしょうか。
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歴史を作ったのは足軽たちの存在が大きい
室町時代以降には、武士の大半を占めていたといわれている足軽。それは江戸時代になっても変わることはありませんでした。歴史の上では名前すら記録に現れない存在ですが、彼らは間違いなくその時代に生きていたわけで、そこには様々な人間模様やドラマがあったのかも知れません。名もなき人々の存在によって日本の歴史が作られた。といっても過言ではないのかも知れません。