イタリアヨーロッパの歴史

イタリア統一のきっかけ「イタリア統一戦争」をわかりやすく解説!

今でこそイタリア半島を支配してヨーロッパ有数の観光国として名が上がるイタリア。 しかし、この国は19世紀に至るまで統一国家としての形はなく、実際には都市国家が寄り合い所帯で集まっているだけの国でした。 今回はそんなイタリアが都市国家の分裂の状態から統一に至るまでの歴史についてみていきたいと思います。

18世紀まで続いていたイタリアの分裂

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イタリアといえば今でこそイタリア共和国という統一国家が支配していますが、3西ローマ帝国の崩壊から1870年のガリバルディによるイタリア統一まではイタリアはいくつもの都市国家によって分裂している状態でした。

まず最初はイタリアの分裂の状況とガリバルディの登場まで見ていきましょう。

西ローマ帝国滅亡によるイタリア分裂

紀元前753年に誕生したローマ王国。

この王国は共和制国家への変貌を経て最終的には周辺諸国を次々と征服。アウグストゥスによってローマ帝国が誕生すると地中海沿岸を全て領有する世界屈指の大帝国となりました。

しかし、時代に連れてローマ帝国は弱体化。さらにゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が徐々に圧迫されていくと395年にローマ帝国は東西に分裂。

イタリア半島は西ローマ帝国が領有することになりましたが、476年にゲルマン人のオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡。

イタリア半島はその後東ゴート王国や、ローマ帝国の旧領回復に燃える東ローマ帝国によって支配されるようになりますが、どの国も長く領有化することはなく次々と王国が成立しては滅ぶの繰り返しを行なっていたのです。

ローマ教皇の強大化と東フランク王国

こうして数々の王国が争っていきましたが、そんな中徐々に勢力を強めていたのがキリスト教のトップとも言えるローマ教皇でした。

ローマ教皇は756年にフランク王国からピピンの寄進を受けて中部イタリアを手に入れると教皇領が成立。さらには800年にフランク王国のカール大帝がローマ皇帝となると北イタリアを獲得。しかし、カール大帝がなくなると870年のメルセン条約によってフランク王国は3つに分裂。

中部フランク王国がイタリアの原型となるのですか、なんとメルセン条約からわずか5年後に中部フランク王国の王位は断絶。

王様がいなくなってしまったイタリア半島では中部フランク王国以降統一国家は現れなくなり、その代わりに各地の豪族たちが都市国家という小さな地域を収める分裂状態となってしまいます。

ルネサンス期のイタリア

中部フランク王国の王位断絶によってイタリア半島は混乱状態となり、長きにわたって戦争状態に突入していくのですが、14世紀になるとイタリアを中心にルネサンスと呼ばれる文化振興が巻き起こり、レオナルドダヴィンチやミケランジェロといった今でも著名である文化人が名を馳せていきますが、それでもイタリア半島は分裂状態のまま。

さらにこのイタリア問題に拍車をかける結果となったのが統一国家によるイタリア戦争でした。

15世紀末にフランス王シャルル8世は南イタリアの有力な王国であったナポリ王国の王位継承問題に介入し、1521年には神聖ローマ帝国のハプスブルク家のカール5世がフランスと対立。いわゆるイタリア戦争が起こり、その結果北部イタリアはオーストリア・ハプスブルク家、中部は教皇領、南部はスペイン・ハプスブルク家が統治するまさしくボロボロの状態に追い込まれていきます。

この頃になるとローマ帝国の栄光は見る影を失ってしまい、イタリア半島におけるイタリア人という見解も失いつつありました。

フランス革命とイタリア統一運動

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ハプスブルク家に統治されてしまい、もはや統一国家の樹立は無理だと落胆しかけていた18世紀。しかし、この時にイタリアはおろか、ヨーロッパ全土の意識を変えてしまう英雄が現れることになるのです。

そう、その人こそがフランス帝国を作り上げ、ヨーロッパ大陸を席巻したナポレオン1世だったのでした。ナポレオンは二度に渡ってイタリアに侵攻し、イタリア北部を支配していたオーストリア軍を破ってイタリアを征服。ローマなどのイタリアの都市をフランスに併合して北東部から中部にはイタリア王国を建国させて養子を国王に任命し、南部のナポリ王国には兄のジョゼフ・ボナパルトを国王としてフランス帝国の衛星国としました。

ポレオン下のイタリアではもともとあった体制をを変えるべく、行政・税制諸改革が行われてナポレオン法典が導入。

このフランスによる行政改革や支配によってイタリアの独立の動きが出ていくようになりました。

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