ザビエルの日本布教
東洋布教の伝道者として選ばれたザビエルはインドのゴアで布教活動を開始します。ザビエルはゴアだけではなく、マラッカやモルッカ諸島でも布教活動を行いました。
1547年、ザビエルはマラッカで一人の日本人と出会います。彼の名は「ヤジロウ」といいました。鹿児島県出身とされますが正確な姓名は不明です。ヤジロウから日本のことを聞いたザビエルは2人のイエズス会士と中国人、ヤジロウ、インド人を伴って日本に向けて出港しました。
一行はヤジロウの案内で薩摩国の坊津に上陸します。1549年、鹿児島で薩摩の大名島津貴久と面会し布教の許可を得ました。1550年、ザビエル一行は長崎県の平戸で布教活動をおこないます。
1551年、ザビエル一行は京都に到着しましたが将軍足利義輝と面会することはできず京都を去りました。一度平戸に戻ったザビエルは周防(山口県)の大名大内義隆と面会し山口での布教の許可を得ました。大分では大友宗麟に迎えられ布教活動をおこないます。
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ザビエルの死と列聖
日本での伝道基盤を築いたザビエルは、一度、インドのゴアに戻ります。日本での布教は一緒に来日したトーレス神父と修道士フェルナンデスに託しました。
ゴアに戻ったザビエルは中国布教を目指します。1552年、ポルトガルが拠点を築いたマカオに向けて出発しますが、中国への入国は思いのほか困難でした。というのも、中国を支配していた明王朝は「海禁政策」を行っていたからです。
海禁政策とは、民間人の海上交易を禁止する命令のこと。主に日本などから中国沿岸にやってくる倭寇とよばれる海賊を取り締まるのが目的でした。そのため、海から明に入るのは困難でした。
ザビエルは明の海禁政策の壁に阻まれている間に病を得てしまいます。1552年12月3日、ザビエルは広東省の上川島でこの世を去りました。ザビエルの遺体はゴアの教会に安置されています。1622年、ザビエルはロヨラとともに聖人とされました。
ザビエル死後の日本布教
ザビエルが日本を去った後、彼の後継者たちが日本での布教を継続しました。戦国大名たちはキリスト教を受け入れることでポルトガルやスペインの船(南蛮船)が来航し、南蛮貿易を行うことを期待してキリシタン大名になります。中にはヨーロッパに使節を派遣する大名も現れました。しかし、豊臣秀吉や徳川家康による全国政権が成立すると、キリスト教は禁止され弾圧の対象となります。
代表的な宣教師たち
ザビエルが日本を去ったのち、多くの宣教師が日本を訪れ布教活動を行いました。1556年に来日したガスパル=ヴィレラは将軍足利義輝の許可を得て京都で布教。彼の報告書である『耶蘇会士日本通信』には反映する自治都市堺のことが記されていました。
信長や秀吉と深いかかわりを持ったのがルイス=フロイスです。フロイスは布教に従事する傍ら、当時の日本の様子を記録し、『日本史』を書き上げました。この中で、フロイスは信長とのやりとりや本能寺の変、秀吉の野望、ザビエルの布教活動、キリシタン大名の動向などについて書き記しています。
1570年に来日したオルガンティノは信長の許可を得て安土にセミナリオを建設。1579年に来日したヴァリニャーニは天正遣欧使節の派遣を行いました。
キリシタン大名と南蛮貿易
日本の戦国大名たちは、キリスト教の布教に寛容な態度を見せます。その理由は、スペインやポルトガルとの貿易にありました。
当時、スペイン人やポルトガル人は南蛮人とよばれます。南蛮人たちは中国産の生糸や絹織物などの高級品に加えて、鉄砲や火薬の原料である硝石を日本に持ち込みました。
戦いが頻繁におきていた戦国時代、大名たちは軍事力の強化に熱心でした。最新兵器である鉄砲には火薬原料である硝石が必要不可欠。そのため、南蛮船と多くの貿易を行いたい戦国大名たちは積極的にキリスト教を受け入れます。
中には、大名自身がキリスト教徒となることもありました。豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠、有馬晴信らは代表的なキリシタン大名です。