室町時代戦国時代日本の歴史

東洋布教に取り組んだ修道士「フランシスコ・ザビエル」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

天正遣欧使節

16世紀後半、日本でのキリスト教布教は順調に進んでいました。イエズス会の日本布教の責任者だったアレッサンドロ=ヴァリニャーニはキリシタン大名の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠に働きかけ、ローマに使節を派遣することにしました。これが、のちに天正遣欧使節とよばれるものです。

選ばれたのは4人の少年でした。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人はヴァリニャーニに引率され長崎を出港。1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。

遠い東洋の異国からやってきた4人の少年使節はヨーロッパで熱烈な歓迎を受けます。しかし、帰国後に彼らを待ち受けていたのはあまりに過酷な運命でした。

豊臣政権と江戸幕府による禁教政策

1587年、織田信長の後継者争いに勝利した豊臣秀吉は九州平定を成し遂げました。この時、秀吉はキリシタン大名の大村純忠が、長崎を教会に寄進していたことを知ります。

日本の土地が外国人のものになっていることに衝撃を受けた秀吉は、宣教師たちの追放を命じました。いわゆる伴天連追放令です。しかし、南蛮貿易での利益は失いたくないと考えた秀吉の伴天連追放令は不徹底でした。

関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康禁教令を布告します。その後、江戸幕府による禁教政策は厳しさを増しました。

1637年、九州の島原地方・天草地方でキリスト教徒や農民たちによる島原・天草一揆が起きると、江戸幕府の禁教政策はいっそう激しくなります。スペイン船やポルトガル船の来航も禁止され、表面的には日本でのキリスト教の信仰は途絶えました。

幕末に現れた隠れキリシタン

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1865年2月、日仏修好通商条約に基づきフランス人の礼拝堂として大浦天主堂がつくられました。同年3月、大浦天主堂に潜伏キリシタンが集まります。そこで、自分たちがキリスト教の信仰をもっていることを神父に告げました。江戸時代、幕府や藩に隠れて信仰を維持した彼らは隠れキリシタンと呼ばれます。現在、隠れキリシタンの遺跡群は世界遺産に登録されました。彼らの存在は信仰の力のすごさを証明するものと言えるでしょう。

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