北伐の完成と日本の山東出兵
蒋介石は上海クーデタで共産党を追放すると、反共色の強い南京国民政府を立ち上げます。その上で、蒋介石は軍を再編成し北伐を再開しました。
国民政府軍が北上すると、山東省に権益を持つ日本が山東出兵を行い蒋介石の北伐を妨げようとします。しかし、蒋介石は日本軍との衝突を避けつつ北伐を続行しました。
このころ、北京を支配していたのは東北地方を支配していた軍閥の張作霖です。張作霖は日本の後ろ盾により東北地方から北京方面まで支配下においていました。
日本は張作霖に軍を温存するため、東北地方に撤退すべきだと進言しますが、張作霖は国民政府軍との決戦を選択。大敗を喫し主力軍を失いました。日本は力を失った張作霖に用はないとばかりに撤退途中の張作霖を爆殺してしまいます。
蒋介石率いる国民政府軍は北京に入城。東北地方を支配していた張作霖の子である張学良は蒋介石に従うことを表明したため、北伐による中国統一は完成しました。
抗日戦争と第二次国共内戦
1931年、日本が満州国の建国を宣言しても蒋介石は動きませんでした。蒋介石は日本よりも毛沢東率いる共産党の殲滅を最優先としたからです。このことに納得できなかったのが父を日本軍に殺された張学良でした。張学良は蒋介石を軟禁し、共産党と合同で日本と戦うことを迫ります。日本撤退後、蒋介石はアメリカを後ろ盾にして共産党と戦いますが敗北。台湾に逃れます。
西安事件と抗日民族統一戦線
蒋介石は満州を占領し、満州国を建国した日本に対して積極的に動きませんでした。このころ、蒋介石は「日本軍は皮膚病だが、共産党は内臓の病だ」として共産党の討滅を最優先していたからです。
蒋介石は共産党の根拠地である瑞金を攻撃しました。共産党の指導部は内陸部を北上し延安に逃げ延びます。蒋介石は延安の毛沢東を攻撃するため張学良の軍を向かわせました。
張学良は蒋介石に満州の日本軍と戦うよう迫っていましたが、蒋介石はことごとく却下。張学良の不満はたまっていました。
1936年、督戦のため西安の張学良の元を訪れた蒋介石は張学良に軟禁されてしまいます。この事件を西安事件といいました。蒋介石はしぶしぶ、共産党との和睦と抗日民族統一戦線の結成を約束し、解放されました。
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日中戦争の始まりと援蒋ルート
1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまりました。また、日本軍は上海でも軍事行動を開始(上海事件)したため、日中戦争は局地戦ではなく全面戦争となります。
1937年11月、日本軍は上海を占領。12月には国民政府の首都であった南京を占領します。蒋介石は日本軍の南京占領前に脱出。南京を脱出した蒋介石は内陸部の重慶に本拠地を移し、日本軍との交戦をつづけました。
日本軍は欧米諸国による蒋介石支援ルート(援蒋ルート)の遮断し、蒋介石を追い詰めるためフランス領インドシナに兵を進めます(北部仏印進駐)。このため、援蒋ルートはビルマ方面からのみとなりますが、蒋介石は重慶で日本軍の攻撃に耐えました。その間、蒋介石の妻である宋美齢はアメリカ各地で講演会を開き、中国に対する支援を要請します。
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日本の敗北と第二次国共内戦
1945年、日本軍が連合国軍に降伏すると中華民国の指導者である蒋介石は戦勝国のリーダーの一人となります。しかし、日本軍との戦いのために手を組んだ共産党との関係は再び悪化しました。
1946年、蒋介石率いる国民党軍と毛沢東率いる共産党軍(人民解放軍)は戦闘状態に突入します。開戦当初、戦力は国民党軍が圧倒的に優勢でした。兵力、支配領域の人口ともに国民党軍は共産党軍の3倍以上の力を持っていたからです。
共産党軍は農村部を中心に国民党軍に反撃。1948年9月から翌年1月にかけておきた遼陽戦役、淮海戦役、平津戦役の三大戦役で人民解放軍は国民党軍を撃滅し、戦力差を逆転させます。
主力部隊を失った国民党軍は敗退を重ねました。1949年、毛沢東は北京で中華人民共和国の建国を宣言します。敗北した蒋介石は台湾に逃げ込みました。
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