三国時代・三国志中国の歴史中華人民共和国中華民国

中国の歴史総ざらい!【各王朝の特徴と出来事を解説】

日本のお隣の国であり、日本に歴史や文化などさまざまな影響をもたらした中国。この国は日本とは違ってずっと統一した国ではなく王朝が成立してはすぐに滅ぶような国だったんですよ。 今回はそんな中国に建てられては滅んでいった王朝について見ていきましょう!

殷王朝【中国最初の王朝】

image by PIXTA / 45321397

殷王朝は紀元前17世紀ごろから紀元前1046年まで続いた現在中国で存在が確認されている最初の王朝です。確認されていないけど存在していたとされる王朝は殷の前に夏王朝なんてのも存在していたそうですが、ここでは紹介を省きます。

殷王朝の特徴はなんといっても邑(ゆう)という集落が王様に従っているシステムで、さらに占いによって政治を決めていました。ちなみにこの時の占いの結果を亀の甲羅や牛の骨で書いた文字が今の漢字につながっているんですよ。

周王朝【混乱を招いた封建制度】

image by PIXTA / 45321284

周王朝は紀元前1046年から紀元前771年まで中国を支配していた王朝です。暴君で知られる紂王の時代に悪政が敷かれると中国の王族たちは殷を牧野の戦いで滅ぼし、代わりに殷の王族の1人であった武王が新しく周を建国します。

周の最大の特徴はなんといっても封建制度の確立です。封建制度とは簡単に言うと王様が諸侯に対して領地を治める権限を与えて周王朝に対して忠誠を誓うような政治体制のことで、これによって周は安定した政治を行なっていました。

しかし、この封建制度の弱点は時が経つにつれて王族と諸侯の関係性が薄まってしまうというものがありました。最初なら父が王様から領地をもらったから子も王族に仕えるようになりますが、玄孫レベルになったらもうそんなこと記憶の彼方に飛んでしまっています。

さらに幽王の時代に褒姒という綾波レイみたいな全く笑わない人を笑かそうと狼煙を焚いて諸侯を呼び出しまくるというドッキリを仕掛けまくり、肝心の時に諸侯が来なくなってしまい幽王が殺されてしまうなどの体たらくを見せてしまい、これから先中国では諸侯が争い合う時代に突入していきました

ちなみに、周自体はなんだかんだで秦が中国を統一する直前までひっそりと存在していました。空気は薄かったですけどね。

春秋・戦国時代【戦乱の中にうまれたいろんな思想】

こうして入った最初の戦乱の時代。この頃に様々な諸侯たちが争うようになりました。ちなみに、春秋時代という名前は歴史書の名前から、戦国時代は同じく歴史書の『戦国策』から取られています。

春秋時代は春秋の五覇という諸侯の中でも特に力を持っている人たちが台頭していく時代でした。ちなみに、その五覇の一人である楚の荘王はあの有名なことわざ『鳴かず飛ばず』や『鼎の軽重を問う』などの産みの親とされるなど後につながる故事成語の大体がこの時に産まれていました。

さらに戦国時代に入るとその争いはヒートアップ。諸侯の中でも選び抜かれた7国が争い合う時代に突入していきます。この頃になると生き残りを図るために様々な政治的思想を持った学者たちが尊敬されるようになり、孔子が生み出した儒教を始めたくさんの政治思想がこの時誕生しました。この政治思想を諸子百家といいます。

また、鉄器や貨幣の流通もこの時から始まり、王朝たちは経済対策を行い富国強兵を行なっていきました。春秋・戦国時代は争いの時代だけではなく、のちの中国の発展の基礎を築き上げる重要な時代だったのです。

秦王朝【中国初の皇帝の誕生】

image by PIXTA / 23340370

そんな春秋・戦国時代でしたが、221年西方の秦という国がついに中国を統一します。この時の指導者は始皇帝。始まりの皇帝の名のようにこの時からついに中国の指導者は皇帝と名乗り始めます。漫画のキングダムでは嬴政として登場していますね。

秦は天下を統一すると周の頃からの封建制度を廃止して新たに郡県制を設けこれまでの地方分権から皇帝に力を集中させる中央集権を確立。さらに各地でバラバラだった長さと貨幣の価値と文字を統一。さらに北部の他民族からの侵攻を防ぐために万里の長城を建設(ちなみに今あるものは明の時代のもの)。中国王朝の基礎を築き上げます。

しかし、始皇帝はこのような功績がありながら儒教を徹底的に弾圧したり、さらに反逆者を続々と粛清。秦の領内では徐々に混乱していき、紀元前210年に始皇帝が亡くなると一気に反乱が勃発。3年後の紀元前207年に滅亡しました。

前漢王朝【中央集権国家を確立させた王朝】

image by PIXTA / 38873623

秦が混乱している中、陳勝・呉広の乱という大反乱が起こるととある一人の農民が立ち上がります。彼の名は劉邦。彼はその勢いのまま秦の首都を陥落させて秦を滅ぼすと漢を建国。さらに同じ頃に中国を席巻していた項羽率いる楚を楚漢戦争によって滅ぼすと中華統一を果たします。ちなみに農民から皇帝になったのは劉邦と後に紹介する明の朱元璋のみです。

漢王朝の特徴は秦の郡県制と周の封建制度のハイブリッドのような郡国制を創立。首都の長安近くは皇帝の直轄地にするものの、地方は諸侯の領地にしていました。しかし、7代皇帝である武帝の頃に全盛期を迎えるとこの郡国制を廃止。秦の郡県制を復活させて中央集権国家を確立しました。しかし、時が経つにつれて皇帝の即位の年齢が若くなっていくと皇帝の代わりに皇帝の一族の外戚と宦官が政治を握っていくようになります。そして西暦8年に皇帝の座を外戚であった王莽が奪い取ると漢王朝は一時滅亡しました。

新王朝【わずか15年で滅んだ地味な王朝】

新王朝は皇帝の座を奪った王莽によって建国された王朝です。しかし新王朝は特に何もやってなく、さらに15年で滅んだため説明のしようもありません。

一つ説明するのであれば新王朝は50万の兵を連れて反乱軍を鎮圧しようとしたのにもかかわらず、劉秀率いる9千の反乱軍に負けてしまったぐらいですね。

後漢王朝【光武帝が再興させた王朝】

image by PIXTA / 37006691

後漢は西暦25年に反乱軍を指揮していた漢の皇帝の一族である劉秀(光武帝)によって建国された王朝です。ちなみに中国の王朝の中で一旦国が滅びたにもかかわらず再び再興させたのはこの漢ただ一つでした。あと、劉邦が建てた漢を前漢、光武帝が建てた漢を後漢といいます。

しかし、後漢の調子が良かったのは光武帝の時まで。その後後漢の皇帝は若死にした人ばかりとなり最終的には184年に黄巾の乱が起こると地方で勢力が独立していき、最終的には魏の曹丕によって禅譲され後漢は滅亡しました。

余談ですが倭(日本)が最初に中国と交流したのはこの後漢の光武帝の頃だと言われており、金印を倭に贈ったりもしています。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: