教養歴史

明王朝末期の中国で布教を行った宣教師「マテオ・リッチ」を元予備校講師がわかりやすく解説

16世紀、ヨーロッパでは航海技術が飛躍的に発展し、大航海時代を迎えていました。同じころに起きていた宗教改革でプロテスタントの攻勢にさらされていたカトリックはイエズス会を中心に世界各地で布教活動を展開、劣勢をはねのけようとします。今回紹介するマテオ・リッチはイエズス会士。キリスト教を布教する傍ら、西洋の学問を東洋である中国に広める役割を果たしました。今回は明帝国末期の中国とマテオ・リッチについて元予備校講師が分かりやすく解説します。

末期の明王朝

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14世紀後半、朱元璋が建国した明王朝は200年以上にわたって中国を支配します。16世紀後半から17世紀初めに在位した万暦帝の時代は滅亡前の明が最後に輝いた落日の前の最後の余光ともいうべき時代でした。張居正の死後、明王朝は衰退期に入ります。豊臣秀吉の朝鮮出兵に対する支援は明の国庫を再び圧迫。17世紀前半の天啓帝の時代には宦官の魏忠賢の専横政治は混乱。宦官派と反宦官派による対立で混乱に拍車がかかりました。

宰相張居正による財政再建

1563年、わずか10歳で万暦帝が皇帝となりました。幼い皇帝を支えた人物が事実上の宰相である主席内閣大学士の張居正です。万暦帝が即位する前、明王朝は財政難に苦しんでいました。張居正は行政改革を断行し、支出を大きく減らします。

また、張居正は検地を実行し土地からの徴税を強化。それまでの両税法をあらため、銀で税を治めさせる一条鞭法をつくって国家収入を増加させました。支出削減と一条鞭法の導入により明王朝は財政難を克服。国庫に銀を積み上げることができました。

さらに、張居正は明の伝統的な対外政策である「海禁」を改め、民間人の海外渡航や民間による海外貿易などを承認。モンゴル人たちが求める馬市の開催も認め、貿易だけではなく、北方での戦争抑止も同時に行うことに成功しました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵で苦しむ朝鮮への援軍派遣

1582年に張居正が死去すると、万暦帝は宰相を置かず親政をはじめました。そのころ、日本では豊臣秀吉が全国を統一します。秀吉は明に対し勘合貿易の再開を迫りますが、貿易再開の交渉はうまくいきません。

1592年、秀吉は朝鮮に出兵。文禄・慶長の役が始まります。朝鮮王朝は単独で日本に対抗することが困難だったので明に救援を要請しました。これに対し、万暦帝は救援軍の派遣を支持します。

朝鮮に到着した明軍は、現在の北朝鮮の首都である平壌周辺を奪還。さらに、朝鮮の都である漢城を取り戻すべく南下しました。明軍の進出を知った日本軍は朝鮮半島各地に分散していた兵力を漢城周辺に集中し明軍を迎撃します。

1593年1月、明軍と日本軍は碧蹄館で激突しました。平壌から撤退する日本軍を追撃していた明軍は騎兵が主力。迎え撃つ日本軍は歩兵と鉄砲隊が主力でした。戦いは火力に勝る日本軍の勝利で終わります。

最終的に日本軍は豊臣秀吉の死がきっかけとなって朝鮮から撤退しましたが、明は多額の出兵費用によってふたたび財政難に陥りました。

万暦帝の墓所「定陵」

北京市中心部から北に向かった場所にある昌平区。この場所に、明の歴代皇帝が葬られました。明の皇帝たちの墓は「明の十三陵」として現在も残されています。1620年に亡くなった万暦帝の墓所である定陵も明の十三陵の一つとして現存。現在は、一般公開されています。

定陵は万暦帝が生きていたころから作られていた巨大な墓で、造営に6年の歳月と800万両もの巨額の費用が投じられました。明王朝が傾く中、国家財政や民衆の苦労を顧みず、陵墓造営に巨額の国費を投じたことは、後世、批判の対象となります。

1956年に行われた発掘調査で、遺髪の鑑定から血液型がABだったことが判明しました。中国の発掘調査技術が未熟な状態で行われた定陵の調査は、発見された文物を無造作に扱ってしまい損壊させるなどの被害を出してしまいます。

文化大革命時代には、紅衛兵によって万暦帝の遺体がガソリンをかけて焼き払われてしまいました

明末におきた官僚と宦官の党争

万暦帝の死後、泰昌帝が即位しました。幼いころから、その賢さにより期待されていた泰昌帝でしたが、即位後わずか1か月で崩御。天啓帝が跡を継ぎます。

天啓帝の時代、宦官の魏忠賢が政治の実権を握りました。魏忠賢は政治に全く関心を持たない天啓帝にかわって朝廷の実権を握ります。

魏忠賢は賄賂を好み、自分に従う者のみを出世させました。反対に、自分に反対する者や批判的な意見を持つ者は容赦なく弾圧します。

明では魏忠賢らの宦官派と顧憲成ら反宦官派の争いが激化。顧憲成は郷里の江蘇省で東林書院を開き、宦官たちの政治を批判しました。顧憲成を中心とする反宦官勢力を東林派といいます。東林派と非東林派の対立は明の混乱をさらに深め、衰退を早めたといってよいでしょう。

明末に中国を訪れ、東西文化の懸け橋となったマテオ・リッチ

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明王朝が衰退し始めていたころ、ヨーロッパでは大航海時代を迎えていました。スペインやポルトガルは積極的に海外に進出し貿易や植民地獲得をおこないます。スペインやポルトガルの海外進出に合わせて、キリスト教(カトリック)の海外布教を説教的に行ったのがイエズス会。中国での布教を成功させるため、何人ものイエズス会宣教師が訪中。布教する傍ら、さまざまな西洋科学・技術を中国に伝えます。マテオ・リッチもそんなイエズス会士の一人でした。

イエズス会による海外布教

ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れていた16世紀前半、ローマ教皇への絶対服従、神と教皇の戦士としての海外布教などをモットーとするイエズス会が結成されました。ジェズイット教団ともいいますね。中心人物はロヨラフランシスコ・ザビエルです。

創設者の一人であるフランシスコ・ザビエルは日本布教を行いました。今回の主人公であるマテオ・リッチもイエズス会宣教師。マテオ・リッチは中国での布教を目指して中国を訪れます。

イエズス会が東洋で布教する際、その地の風俗を尊重しながら布教する方針を取りました。中国の場合、儒者の格好をし、西洋の先進的な技術を提供することで中国人たち、特に知識人・読書階級である士大夫の信用を得ようとしたのです。

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