安土桃山時代日本の歴史

戦国の覇王織田信長が築城した「安土城」について元予備校講師がわかりやすく解説

安土城の立地条件

信長が築城する前、安土山には南近江を支配した六角氏が支城を構えていました。安土山は琵琶湖を見下ろす場所にあり、琵琶湖水運を利用できる場所だからでしょう。

琵琶湖から流れ出る瀬田川は京都府に入るあたりで宇治川となり、桂川や木津川と合流。大阪府周辺では淀川となって大阪湾にそそぎます。琵琶湖や淀川水系は古代から重要な物資運搬ルートでした。合理主義者の信長が目を付けないほうがおかしいといってもよい交通の要衝だったのです。

安土は岐阜城よりも西にあるため京都に近く、淀川水系をたどると京都南郊の伏見や大坂方面に素早く移動することできました。信長はこれまで以上に、機動的に兵力を動かすことが可能となります。北の長浜城には羽柴秀吉、南の坂本城には明智光秀を配し盤石の体制で安土を本拠としました。

安土城の築城

1576年、信長は重臣の丹羽長秀に命じて安土築城を開始させます。安土城は総石垣でつくられた巨城でした。安土城最大の特徴は天守閣です。これまでの城郭には櫓はありましたが、本丸中央に天守閣を建てることはありませんでした。安土城以後、本丸に高層の天守閣を建てるのが通例となります。

戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師ルイス=フロイスは著書『日本史』の中で、安土城の天守を七重からなる色彩豊かな建物だと記しました。

また、安土城は麓にある家臣たちの屋敷から城までの道が一直線であることも特徴です。通常、外敵からの侵入を防ぐため、天守のある本丸への道は曲がりくねっているのですが、安土城は防御をあまり考えていません。

安土城がつくられたのが近畿地方から反信長勢力を一掃しつつある時期で、防衛よりも利便性を優先しても問題ないと考えたからではないでしょうか。

信長の死と安土城のその後

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1582年、織田信長は中国地方に遠征している羽柴秀吉の救援に向かう途中で京に立ち寄ります。警備の数が少ない隙を突いて信長家臣の明智光秀が本能寺の変を起こし、信長を倒しました。本能寺の変後、安土城はどうなってしまったのでしょうか。信長死後の安土城についてまとめます。

本能寺の変

信長の天下布武が確実に進んでいるかに思われた1582年、日本中を驚かせる大事件が京都で起きました。現在も有名な本能寺の変です。

中国地方の毛利氏と戦っていた羽柴秀吉から援軍を請われた信長は、安土城を出発し京都の本能寺に入りました。この時、信長の護衛は小姓衆のみで数十人から100人程度しかいません。信長は近畿地方にいた明智光秀に中国地方への出陣を命じていたので、信長としては自分が大軍を引き連れなくても戦力は十分と判断したのかもしれません。

しかし、敵は中国地方ではなくもっと近くにいました。6月1日早朝、信長が宿泊していた本能寺が突如襲われます。襲ってきたのは明智光秀でした。光秀は本能寺で信長を討ち取ると二条城にいた嫡男の織田信忠も滅ぼします。安土城の主と将来の主が本能寺の変で倒されてしまいました。

安土落城と天守炎上

主を失った安土城は明智勢によって接収されました。本能寺の変を知った羽柴秀吉は毛利氏と和睦し、明智光秀と戦うために軍を近畿地方に向けます。秀吉は光秀が予想したよりもはるかに速いスピードで軍を展開、信長の子である織田信孝らを味方につけ明智軍に迫りました。

光秀は山崎で秀吉軍を迎え撃ちますが敗北。戦場から離脱し体勢を立て直そうとしますが、落ち武者狩りにあって命を落とします。

安土城を守備していた明智秀満は山崎で光秀が敗れたと知るや安土城を放棄して坂本城へと向かいました。明智秀満の撤退の前後、天守閣や本丸が焼失したとされます。

明智勢が撤退する際に火を放ったのか、織田信雄軍が火を放ったのか、あるいは混乱に乗じた略奪目的で侵入したものが火を放ったのか。どの説も決定打を欠きます。もしかしたら、落雷などの自然現象で炎上したのかもしれませんね。

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