日本の歴史江戸時代

江戸時代異国に開かれた数少ない窓だった長崎の「出島」ー元予備校講師がわかりやすく解説

フェートン号事件

19世紀の初め、ヨーロッパではナポレオン戦争が起きていました。イギリスはフランスの味方をしていたオランダを攻撃します。

1808年、イギリス軍艦フェートン号はオランダ船に偽装して長崎に入港しました。偽装に気づかず、出迎えたオランダ商館員を捕まえたフェートン号の艦長は長崎港内にオランダ船がいないか捜索します。オランダ船の不在を確認したフェートン号は長崎奉行に食料の供給を要求しました。

当時、長崎を警備していた佐賀藩は経費節減のため守備兵を既定の10分の1程度まで減らしていたため、フェートン号の要求を拒むことはできません。フェートン号は食料や水を手に入れたのち、長崎を退去しました。

長崎奉行松平康英は責任を取って切腹。佐賀藩主は100日の閉門とされました。フェートン号事件は1825年に出される異国船打払令が発令される原因となります。

シーボルト事件

江戸時代、出島には多くのオランダ人が出入りしましたが、その中でもっとも有名な人物はシーボルトではないでしょうか。シーボルトは19世紀前半に出島にいたオランダ人です。彼の仕事はオランダ商館付きの医師でした。

シーボルトはオランダ風説書を提出する商館長一行の一員として江戸に赴きます。そこで出会ったのが高橋景保でした。景保は伊能忠敬がつくった日本地図『伊能図』を完成させた天文学者です。

樺太東岸の資料を探していた高橋はシーボルトと接触。シーボルトは景保にロシアの海軍提督で、のちに日本海の名付け親として知られるクルーゼンシュテルンが書いた『世界周航記』を渡します。景保はそのお礼に、『伊能図』をシーボルトに贈りました。

しかし、幕府は地図の持ち出しを厳しく禁じています。1828年、シーボルトは帰国直前に幕府にとらえられました。『伊能図』を持ち出そうとしたからです。幕府は景保も捕らえ、斬首します。シーボルトは追放処分とされました。

20世紀になり、出島復元プロジェクトが始まった

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明治時代になり、貿易が解禁となると出島は役割を終えました。出島の周辺は埋め立てられ、往時をしのぶことは難しくなります。1996年から出島復元プロジェクトが動き出しました。現在までに16棟の復元が完了。長崎市は今後も出島の復元をつづけ、最終的に堀をめぐらして扇型の形を復活させるとのことです。とても楽しみなプロジェクトですね。

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