長崎貿易の輸出入品
長崎貿易とは、江戸時代に長崎で行われた日本とオランダ・中国との貿易のことでした。長崎貿易での輸入品は生糸、絹織物、書籍、綿織物、ヨーロッパ産の毛織物、香木、薬品、時計などです。対する輸出品は銀や銅、海産物を俵に詰めた俵物でした。
輸入品でもっとも注目すべきは生糸です。長崎貿易が開始される前、ポルトガル商人が中国産の生糸や絹織物を日本に持ち込んで利益を上げていました。ポルトガル人が追放されたのちは、オランダや中国がとってかわります。
生糸の値付けの主導権が外国商人にあったため、価格は高止まりしていました。そのため、幕府は日本商人に糸割符仲間を結成させ、外国商人と団体交渉をさせ価格を下げようとします。それでも、貿易全体としてみれば日本側の赤字で金や銀が流出ました。
幕府による情報収集の一環だった「オランダ風説書」
幕府はオランダ人たちを出島に住まわせるだけではなく、商館長であるカピタンを毎年江戸に召喚し、幕府に対する報告書である「オランダ風説書」の提出を義務付けました。
「オランダ風説書」はカピタンがオランダ語で作成し、通詞が日本語に翻訳します。それを、長崎奉行が確認したのち、老中たちに提出されました。
主に、日本侵略の可能性があると幕府が考えたスペインやポルトガルの動向を知ることが目的です。しかし、のちに形だけのものになっていきました。ところが、幕末に外国船が頻繁に来航するようになると「オランダ風説書」の重要性がアップします。
1840年にアヘン戦争が起き、ヨーロッパの情勢を知る重要度が高まると、詳細な情報を幕府が求めるようになりました。これに応じて、通常の「オランダ風説書」とは別に「別段風説書」という詳細な文書も提出されるようになります。こうした海外情報は幕府内部の秘密でしたが、一部の藩や知識人は内容を知っていたようですね。
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貿易赤字を解消しようと制定された貿易ルール、海舶互市新例
18世紀の初め、5代将軍徳川綱吉時代の支出の増加などにより、幕府財政は赤字となっていました。6代将軍徳川家宣に仕え、政治を行った新井白石は財政再建を目指し、支出を削減しようとします。朝鮮通信使の費用を節約し、簡素化したのもその一例でした。
白石は、長崎貿易での赤字にも着目。長崎貿易を制限する命令を出します。それが、海舶互市新例、別名、長崎新例でした。白石が貿易制限をしようとした理由は、財政赤字の削減のため。
白石は長崎に入港する船の数を、清船30隻、オランダ船2隻に限定。貿易額を清船は銀6000貫、オランダ船は3000貫とし、支払いは銅と俵物で行うとしました。また、密貿易を防ぐため、貿易船に貿易許可証(信牌)を持ってこさせます。白石が作った仕組みは1820年代まで継続しました。
金・銀・銅にかわる俵物の輸出
江戸時代中期、各地で産業が盛んになり生産力があがると、それを運ぶ海運が整備されました。東北地方と江戸を結ぶ東回り航路、大阪と日本海沿岸を結ぶ西回り航路、江戸と大阪を結ぶ南海路がその中心です。
また、蝦夷地と大阪方面を日本海経由で結ぶ北前船が登場するのも江戸中期のことでした。特に、蝦夷地などの海産物からなる俵物は長崎貿易でも重要な品物でした。
そもそも、俵物とはなまこや干しアワビ、ふかひれなどの海産物を俵に詰めたもののこと。寒天や昆布、カツオブシなども俵に詰めて輸出されます。こうした海産物は中国商人が高級食材の原料として買い付けました。18世紀後半の老中田沼意次は俵物の生産を奨励。積極的に輸出されるようになりました。