日本の歴史鎌倉時代

後醍醐天皇に忠誠をつくした「楠木正成」の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

宇都宮高綱との戦い

1332年、幕府側が占領した赤坂城には湯浅宗藤が配置されました。湯浅は城内に兵粮を運び入れ防衛体制を整えようとします。正成は輸送部隊を途中で襲撃。輸送部隊を奪うと湯浅勢に変装して赤坂城に向かいます。

湯浅宗藤は輸送部隊が楠木軍に乗っ取られているとは知らず、城内に招き寄せました。入城した楠木軍はたちまち湯浅勢を制圧。赤坂城を奪還します。赤坂城を奪還した楠木軍は和泉・河内一帯を制圧しました。

この知らせを聞いた六波羅探題は武勇の誉れ高い宇都宮高綱に出撃を命じます。正成は宇都宮軍を天王寺付近で迎え撃ちました

しかし、正成は宇都宮と正面から戦いません。その代わりに、宇都宮軍の周囲で夜通したいまつを燃やしてプレッシャーをかけました。これを、三日三晩続け宇都宮軍を疲労させます。その結果、宇都宮高綱は戦闘継続を断念し撤退しました。「良将、戦わずして勝つ」の良い見本ですね。

千早城の戦い

宇都宮勢を退却させた正成の評判はさらに高まり、畿内では反幕府勢力が勢いづきました。これを知った北条氏のトップである得宗の北条高時は正成の撃滅を決意。大軍を派遣して正成討伐に向かわせました。

一方、正成は金剛山系にいくつもの城砦を建設します。正成は千早城を中心とした防衛ラインを構築しました。

1333年、楠木軍と幕府軍の戦いが始まります。数に劣る正成はゲリラ戦法で幕府軍を翻弄しました。また、千早城の攻防戦では落石攻撃や火計を駆使し幕府軍を寄せ付けません。幕府軍は大勢の死者を出し力攻めによる早期決着を断念しました。

正成の奮戦により、幕府軍の目はいやがおうにも正成に集中します。その隙をついて後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国船上山で挙兵しました。

鎌倉幕府の滅亡

千早城の戦いが長引き、後醍醐天皇が隠岐から脱出したとの知らせが全国各地の届くと、各地の反幕府勢力が一斉に蜂起しました。播磨で挙兵した赤松円心はその代表格といってもよいでしょう。

1333年5月7日、鎌倉幕府の有力御家人である足利高氏が後醍醐天皇に帰順。京都にあった六波羅探題を攻め滅ぼしました。六波羅探題陥落の知らせは5月10日に千早城の幕府軍にもたらされ、幕府軍は千早城の包囲を解いて撤退します。

その約2週間後、今度は新田義貞鎌倉に攻め込み、北条高時らを滅ぼしました。新田義貞が鎌倉を攻撃した理由の一つは、幕府が楠木正成討伐の戦費調達のため、新田義貞を含む有力者に多額の納税を強いたからです。六波羅探題と鎌倉の2大拠点を失った鎌倉幕府はあっけなく滅亡しました。

後醍醐天皇の忠臣

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鎌倉幕府の滅亡後、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を行います。正成は無位無官から異例の出世を遂げ、建武政府の中心人物となりました。しかし、建武の新政は鎌倉時代の前例を尊重しないことが多く、多くの武士は不満を持ちました。恩賞も公家に厚く武士に薄いと不評。武士たちは次第に建武の新政を見限り、足利尊氏に期待を寄せました。楠木正成は後醍醐天皇を守る立場から、足利尊氏と戦うことになります。

建武の新政

1334年、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政をはじめました。新政最大の特徴は、後醍醐天皇が自ら政務を行い、後醍醐天皇の決定が綸旨という命令書で通達されると言う点です。

鎌倉時代から、武士たちは多くの訴訟は幕府に持ち込みました。その多くが土地をめぐる争いです。後醍醐天皇は、土地争いも綸旨で決着させようとしました。しかし、あまりに裁判の件数が多いため、後醍醐天皇の綸旨が間に合いません。

多くの武士は「鎌倉幕府よりも効率が悪くなった」と考えたでしょう。「二条河原落書」では、建武の新政の混乱ぶりがかなりはっきりと皮肉られ、批判されていますね。

また、鎌倉幕府討伐の恩賞が公家に厚く武士に薄いという不満がありました。不満を持った武士たちは、源氏の血筋を引く有力者、足利尊氏に期待するようになります。

足利尊氏との戦い

1335年、建武の新政に対する不満が渦巻く中、北条高時の子である北条時行が鎌倉幕府再興の兵を挙げました。のちに、中先代の乱と呼ばれる北条時行の反乱は勢力を拡大し鎌倉を占領します。

この知らせを聞いた足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに直ちに出陣。東国に下った尊氏軍は北条時行の軍を打ち破り、鎌倉を取り返しました。

その後、尊氏は後醍醐天皇からの京都帰還命令を拒否。勝手に論功行賞を行ったばかりか、反旗を翻し、京都を占領しました。正成は新田義貞、北畠顕家らとともに尊氏と戦い、京都を取り戻します。

このとき、何人もの武将が勝利したはずの朝廷軍を離脱し、敗走する尊氏のあとを追いました。正成は、尊氏の人望のすさまじさを思い知ったかもしれません。敗走した尊氏は九州で体勢を立て直し、再び京都へと迫りました。

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