世界でも最強クラスだった連合艦隊の概要
日本海軍の歴史をたどれば非常に長いですので、そこは割愛して。では、太平洋開戦時の日本連合艦隊の概要や序列について説明していきましょう。
膨大な艦艇の数が揃う
海軍といっても軍艦の種類はさまざま。一番大きな戦艦から一番小さな潜水艦や駆潜艇まで、その目的や用途に応じて多くの艦艇が建造されました。第一次世界大戦の頃から在籍していた艦もありますし、太平洋戦争が始まってから量産された急増艦など、枚挙にいとまがありません。
日本は海に囲まれた国ですから、陸軍よりも海軍のほうが技術的にも発達するのは当然のこと。いつしか世界でも指折りの海軍国だと認められるようになったのです。
以下が太平洋戦争中に在籍していた日本の艦艇。
戦艦 太平洋戦争開戦時12隻
航空母艦 開戦時8隻 開戦後就役15隻
重巡洋艦 開戦時18隻
軽巡洋艦 開戦時17隻 開戦後就役5隻
駆逐艦 開戦時123隻 開戦後就役44隻
潜水艦 開戦時151隻 開戦後就役3隻
その他、海防艦、駆潜艇など多数
開戦初期に威力を誇った空母機動部隊
空母を中心とした艦隊。空母機動部隊をはじめに創設したのは日本海軍でした。世界が大艦巨砲主義にまだ凝り固まっていた時代に艦載機による攻撃を研究し、それを実践したのです。開戦当時、世界にはアメリカやイギリスなど空母を持つ国もありましたが、それらは実際に空母を機動運用するには至らず、日本の機動部隊は太平洋からインド洋を股にかけて猛威を振るったのでした。
しかし日本海軍がミッドウェー海戦で敗れ、大きく攻撃能力が低下すると、逆にアメリカ海軍が任務部隊(タスクフォース)と呼ばれる空母機動部隊を編成し、守勢に回った日本軍に襲い掛かったのでした。攻守入れ替わって以降、日本海軍は必死で機動部隊の立て直しを図るものの、艦載機搭乗員の技量低下や機材不足に悩まされ、二度と太平洋で制空権を握ることはできませんでした。
一撃必殺の日本水雷戦隊
「水雷」とはいわゆる魚雷のこと。日本海軍は魚雷を積んだ駆逐艦を多数揃え、一撃で大きな攻撃力を持つ水雷戦隊を編成していました。駆逐艦だけをみれば、戦艦や巡洋艦に比べて非常に小さく防御力も格段に劣りましたが、何より優れていたのは速力と魚雷による攻撃力だったのです。
当時の駆逐艦の最大船速は30ノットを優に超えるので、戦闘時にはもの凄いスピードで敵艦隊の近くに肉薄し、必殺の魚雷を放つのですね。駆逐隊には最低でも3隻程度の駆逐艦が所属していましたから、時速60キロで突っ込んできて一斉に8本×3隻=24本の魚雷を発射すれば、何本かは確実に命中する計算に。魚雷1発でも当たり所によっては戦艦が沈没するくらいの威力がありました。
戦争の前半期までは、特に夜間の戦いにおいて活躍した水雷戦隊でしたが、やがてアメリカ海軍が高性能のレーダーを開発し戦場に投入すると、一気にその優位性が揺らぐことに。戦況が悪化すると日本の駆逐艦は本来の任務以外にも船団護衛や輸送任務にも駆り出されるようになり、活躍の場を奪われていくのでした。
最高の技量を誇った日本の戦艦部隊
そもそも日本海軍のお家芸は戦艦を中心とする一大海戦によって敵を殲滅撃破するという戦法でした。そのために戦艦部隊は日夜、砲術と測距技術の研鑽に努め、その技量は世界一だと謳われました。しかし、太平洋戦争においてその素晴らしい技量が発揮される機会はほとんど訪れなかったのです。
決戦のために日本の戦艦が温存され続けた。ということもありますが、空母機動部隊などの活躍によって既に戦艦による戦艦らしい戦いの場はなくなっていたのでした。アメリカ海軍の場合は、新鋭戦艦は空母機動部隊に随伴し、旧式戦艦は主に陸上砲撃を行うなどの任務の振り分けがなされていたため、それでも存在する価値はありました。
そうして日本の戦艦部隊は、上空を守る航空機の援護もないまま数多の戦場で戦力をすり潰していったのです。戦争が終わる頃には、戦える能力を持つ戦艦は既に1隻だけになっていました。
なぜ連合艦隊は敗れたのか?
これだけの大陣容を誇った日本の連合艦隊がなぜ敗れたのか?終戦時にはほとんど戦力らしい戦力は残っていませんでした。まさに完膚なきまでの敗北といってもいいでしょう。それほどアメリカとの国力の差はあったのでしょうか?実際に検証していきましょう。