譜代大名:関ヶ原の戦いより前からの家臣・信頼度(中)
譜代(譜第)とは、現代ではあまり使われなくなった言葉ですが、同一の血統で継承されてきた家系や系譜を表す言葉。譜代大名(ふだいだいみょう)は、関ケ原の戦いの前から徳川に仕えていた大名たちのことです。昔から徳川家康を支えて苦楽を共にしてきた大名家なら信頼できます。
譜代大名の中でも、主に家康に仕えていた期間の長さなどから「安祥譜代」、「岡崎譜代」、「駿河譜代」と序列が決められていたそうです。安祥譜代(あんじょうふだい)が最古参。酒井、本田、大久保など、徳川家康のひいひいおじいさんよりもっと前の代から徳川家(松平家)に仕えていた大名たちがここに当たります。
譜代大名は、老中や若年寄など、江戸幕府の重要な役職に就くことが可能。ただ、石高自体は、5万石~15万石くらいと、それほど多くはなかったようです。徳川家との信頼関係が確立していた、ということなのかもしれません。
外様大名:関ヶ原の戦いの後からの家臣・信頼度(小)
お待たせいたしました。ようやく「外様大名」の登場です。
お察しのとおり外様大名とは、関ケ原の戦いより後から徳川家に仕えるようになった大名のこと。関ケ原の戦いの最中、もしくは直前に西軍から寝返ったり、西軍の石田三成に反発して徳川家康のもとにやってきた大名なども外様大名となります。
そのため、関ケ原の時に東軍に属していた大名の中にも、外様大名となっている家は結構あるのです。
彼らは一応大名であり、城を与えられ領地も石高もそこそこありますが、幕府の役職に就くことはできません。
例えば加賀百万石と称えられた前田家。前田利家は豊臣秀吉の盟友であり、江戸時代に入ってからの石高は実際に100万石を超えていたといいます。
江戸末期に大活躍する鹿児島・薩摩の島津家も外様大名であり73万石、仙台の伊達家は56万石。加藤清正や福島正則など豊臣秀吉の腹心として活躍した彼らも外様大名です。
外様大名といっても、かなり有名どころが多く、数字だけ見てみると、20万石以上もらっている大名が多い。江戸幕府の要職に就くことはできず、政治の発言権はないが禄は多い、というのが、外様大名の実情だったようです。そこそこお金を与えて、不満を言ったり反乱を起こしたりしないよう抑えていた、ということなのかもしれません。
さらに、外様大名は比較的、江戸から遠い地域、九州や四国、東北などに領地をもらっているケースが多かったようです。さらにさらに、外様同士でくっついて悪だくみをしないよう、外様と外様の間に譜代大名の領地を挟むなど、かなり細かい工夫をして配置していたとも伝わっています。
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領地を召し上げらるわけではないし給料も出るけど、重要な仕事を任せられるわけではなく、何となく味噌っかすっぽい扱い……。外様大名のイメージはそんなところでしょうか。もし何か少しでも不穏な動きを見せたら、幕府から言いがかりをつけられてあれこれいやな目にあう可能性もあります。目立たないようおとなしく、つつましく。外様大名はみんな、疎外感を味わいながらも、たくましく生き延びていったのでしょう。