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「大阪夏の陣」とは?難攻不落・大坂城はなぜ落城したのかわかりやすく解説

「国家安康」「君臣豊楽」いちゃもんから発展した大坂の陣

1600年に関ヶ原の戦いによって西軍が敗北した後も十数年間は、豊臣秀頼が天下人という状況は変わらず、秀頼は大阪ですくすくと成長していきました。

この間も、徳川と豊臣側(淀)との間で、ちょくちょく小さく火花が散ります。淀は徳川家康のことをあくまでも「家臣」と思っているので、徳川が幕府を開こうが、征夷大将軍になろうが、関係ない。むしろ不愉快でなりません。

関ヶ原の戦いから10年以上が経過した1611年、新しい天皇の即位を口実に、徳川家康は豊臣秀頼と久しぶりに対面します。

立派な青年に成長した秀頼。小柄でサルのような風貌だった秀吉とは大きく異なり、秀頼は身長180㎝以上ある大柄で迫力ある躯体をしていたとも伝わっています。そんな秀頼を見て、家康は少なからず脅威を感じたとか。また、そんな秀頼の後ろに、相変わらず淀の姿が見え隠れするところから、状況は進展しないと判断したのではとの見方もあります。

とにかく、徳川家康と豊臣秀頼の直接対面の後、状況は少しずつ動き始めるのです。

このころ、豊臣家は東山にある方広寺というお寺を再建し、4mほどの大きさのある梵鐘を奉納しています。鐘には、文英清韓という僧侶が起草した銘文が刻まれましたが、この中の「国家安康」「君臣豊楽」という一文に、徳川家康からダメ出しが。「家康という字を2つに分断し、豊臣が主君になるという意味を含んだ文章を入れてる。これは問題だ」といちゃもんをつけてきたのです。

そんな馬鹿な、と事態の収拾に奔走する豊臣の家臣たちでしたが、徳川家康のほうが1枚も二枚も上手。ああ言えばこう言う、こうすればああすると次々追い込まれ、ついには、徳川豊臣で一戦交えないとどうにもならない状況に陥ってしまうのです。

「大坂冬の陣」から「大坂夏の陣」へ・豊臣vs徳川の攻防

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徳川家康は、江戸幕府を築いて天下をおさめ、豊臣秀頼にも1武将1重臣としてどこか地方の城を守ってほしいと考えていたようです。しかし淀がこれを承諾するわけがありません。いくら徳川に味方する武将が多いとはいってもこちらは豊臣。莫大な財力と大阪城があります。関ケ原から十数年後、いよいよ、徳川による豊臣攻めが本格化。大阪の陣が始まります。

出でよ真田丸!徳川軍を翻弄し続けた「大坂冬の陣」

1614年の冬、徳川家康は豊臣討伐の旗を揚げます。これに集まった軍勢はおよそ20万。

一方の豊臣側にも、およそ10万ほどの兵力が集まります。すでに豊臣に心から味方する武将は数えるほどになっていたと考えられますが、淀はお金をたくさん使って全国から浪人を集め、軍隊を編成させたのです。

この頃、関ケ原の戦いで西軍についた武将たちの多くが全国に散り散りになり、苦労しながら御家再興を夢見ていました。豊臣はその連中に金を支払い、集めたものと思われます。その中には、長宗我部や毛利、明石、大谷といった名のある武将も。そして、あの真田幸村も、この機に大阪城へとはせ参じていました。

真田幸村といえば「日本一の兵」と称えられた、戦国時代一二を争う強者・キレモノ。幸村は「真田丸」と呼ばれる出城を築き、地形を活かした戦いで徳川軍を翻弄します。ほかの武将たちも成果を上げ、徳川優勢かと思われた戦いは意外にも拮抗。徳川は苦戦を強いられます。

しかし豊臣の状況も明るいとは言えず、両軍ともボロボロ。あんなに強気だった淀も城に砲弾を撃ち込まれたことなどで弱気になり、両軍の間で和平交渉が始まります。

大坂城を丸裸にした策士・徳川家康の知略の数々

勝ったとは言えない徳川家康ですが、ここは冷静に仕切り直しをして、いつものように抜け目なく和平交渉を進めます。

双方の間の取り決めは「大阪城の外堀を埋める」「二の丸と三の丸を撤去」という条件の代わりに、豊臣側の領地と命の保証するというものでした。加えて、豊臣が雇った浪人たちを罰しないという約束も取り付けました。

大阪城は何重にも堀や塀を張り巡らせた巨大城郭。外堀ぐらいくれてやる、くらいの感じだったのかもしれません。しかしそこはタヌキ家康。すっとぼけて内堀も埋めてしまい、ほかの砦も壊してしまいます。大阪城は砦も堀もない、普通の家になってしまったのです。

徳川が卑怯な感じに思われますが、実は豊臣方にも甘いところが。冬の陣が終わった後も、雇った浪人たちを大阪城の中に住まわせており、彼らはそこそこ好き勝手していました。「豊臣はまだ武装している」と思われても仕方のない様子だったのです。

双方、分かり合う間もないまま、溝は深まる一方。ついに徳川は再び決起します。相手は丸裸になった大阪城。すでに勝ち目があるとは思えず、浪人たちも次々に逃げ出してしまいます。

最終通告も拒否!ついに最終決戦へ!「大坂夏の陣」

絶対不利といっても、豊臣側にはまだ、7万の兵が残っていました。現状を考えると、かなりの兵が残っていたことになります。現代のように、リアルタイムに情報が手に入る時代ではありませんので、まだこの時点でも豊臣に勝機があると考える兵が多かったのかもしれません。

一方の徳川の軍勢は15万以上。

戦いはまず、湾に近い商業の町・堺で始まりました。この町を徳川におさえられたら物資を奪われてしまいますので、その前に焼いてしまおうという豊臣側の作戦です。

戦いはそのまま、大阪城の南側で展開。しかし霧が立ち込めて視界が悪くなるなど悪条件が重なり、豊臣側は苦戦を強いられます。

真田・毛利の軍勢が奮起し、徳川軍を押し返し、何とか戦いを優位に進めることができていましたが、7万といっても金で集められた傭兵集団のようなもの。霧の中で連携できるほどの訓練は積んでいません。戦局を見極めきれず突進してしまった武将もいて、状況はたちまち劣勢に追い込まれてしまいます。

大阪城でも苦戦が続いていました。

豊臣側の家臣たちは豊臣秀頼に戦場へ出るよう要請。秀頼の姿を見れば、兵たちの士気は高まるはずです。しかしこれを淀が拒否。秀頼可愛さからか、秀頼を大阪城の外に出そうとしません。秀頼も一度はちょっとだけ城の門のところまで行ったのですが、結局母に従い、本丸まで戻ってしまうのです。

力で勝る徳川軍に勝ちめなし・大阪城落城・豊臣家の最後

兵力ではもう勝ち目はない、ならばせめて家康の首だけでも!真田幸村を筆頭に、残った豊臣軍の勢いには凄まじいものがありました。

幸村は徳川の本陣に突入し、家康に肉薄したとも伝わっています。これにはさすがの家康も肝を冷やしたのだそうです。

しかし猛攻もむなしく、真田幸村も命を落とし、ほかの武将たちも次々に落ちて、敗北は目に見えていました。最後まで抵抗していた毛利勝永は大阪城にこもって戦おうとしますが、そのとき大阪城内が火事になり、城は燃え尽きてしまうのです。

城の中にいた淀は、秀頼の助命嘆願を、秀頼の妻・千姫に託します。千姫は徳川家康の孫娘。きっと願いは聞き届けられると思っていたようです。

千姫は大阪城を脱出し、徳川家康に嘆願しますが時すでに遅し、家康の耳に届くはずもありません。

淀は状況を察し、秀頼とともに大阪城内で自害。豊臣家は滅亡します。

こうして、戦国最後の戦いといわれた大坂夏の陣は幕を下ろしました。激しい戦いではありましたが、関ケ原の戦い、そして方広寺の鐘銘の一件から、すでに戦いの結末は見えていたのかもしれません。

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