室町時代戦国時代日本の歴史

武田氏衰退の引き金を引いた「長篠の戦い」の背景・経緯・その後ー元予備校講師がわかりやすく解説

奥平貞昌の離反と長篠城への配置

武田氏と徳川氏の戦いにおいて、国境沿いの国人たちはどちらの味方になるかの決断を迫られました。奥三河に勢力を持つ奥平氏もそうした国人の一つです。

武田信玄の死後、奥平貞昌は武田氏からの離反を決断し、徳川氏に味方します。貞昌は武田信玄の死が確実であることを家康に告げました。貞昌の離反の知らせを聞いた勝頼は人質として差し出されていた妻などを処刑します。

貞昌の帰順を受け入れた家康は、奪還したばかりの要衝の長篠城を奥平貞昌に預け、対武田の最前線に立たせました。武田勝頼としては、裏切った奥平貞昌をそのまま放置することは出来ません。1575年、武田勝頼は15,000の兵を率いて長篠城を包囲。猛攻撃を加えました。

鳥居強右衛門、決死の援軍要請

長篠城はわずか500の寡兵で武田軍の猛攻に耐えていました。しかし、兵糧庫が焼失したことにより長期間の抵抗が難しくなります。貞昌は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を使者に立て、家康に援軍を要請しました。

鳥居は岡崎城までたどり着くと、すでに信長の援軍が岡崎城に到着しているのを目撃します。信長・家康の援軍が数日のうちに長篠城に向けて進発することを知った鳥居は長篠城にとって返しました。しかし、途中でつかまってしまいます。

勝頼は、鳥居に「援軍が来ないと言えば、命は助けてやる」と言われ、その誘いに乗ったふりをしました。味方の前に引き出された鳥居は「すぐに援軍が来る」と叫んで城兵を勇気付けます。士気の上がった奥平勢は援軍到着まで長篠城を守り抜きました。鳥居は怒った勝頼によって殺されます。

織田・徳川連合軍と武田軍の対陣

1575年5月18日、織田・徳川連合軍は長篠城の手前にある設楽原に布陣。織田・徳川連合軍は馬防柵などの防御設備をはりめぐらせて武田軍を待ち受けます。織田・徳川連合軍は、防御に徹する戦法を選びました。

信長の着陣と圧倒的多数の連合軍を前にして、武田の重臣たちは勝頼に撤退を進言します。しかし、勝頼は信長が出陣していることはかえって好機だと考え、織田・徳川連合軍との決戦を選択しました。

勝頼は長篠城の抑えに3,000ほどの兵を割くと、残りの12,000を率いて織田・徳川連合軍が待ち受ける設楽原へと進軍。勝頼は野戦で勝利することにより全体兵力で上回る織田・徳川との戦いで主導権を握ろうとしたのでしょう。

また、信長が自ら前線に出てくる機会はめったにありません。桶狭間の合戦でもわかるように、合戦で大将を討ち取ることが出来れば、その後の展開は有利になります。勝頼からしても決戦を仕掛ける価値がありました。

決戦!長篠の戦い

5月20日深夜、信長は家康の重臣酒井忠次に別動隊を組織させました。別動隊の目的は危機に瀕した長篠城の救援です。別動隊は5月21日の夜明けに長篠城を包囲していた4つの砦を陥落させ、長篠城救援に成功しました。そればかりか、別動隊は長篠城の奥平勢とともに後方に控えていた武田軍に大打撃を与えることにも成功します。

5月21日早朝、設楽原に展開した武田軍は織田・徳川連合軍の防御陣地に対して総攻撃を開始しました。武田軍は織田・徳川軍の陣地を突き崩そうとします。しかし、陣地を破壊する前に鉄砲などの攻撃により武田軍は多くの死傷者を出してしまいました。

この時、武田軍は兵士だけではなく有力武将も多数失います。山県昌景馬場信春内藤昌秀(昌豊)ら武田家を支えた重臣たちも討ち死にしました。甚大な被害を出した勝頼は、数百の旗本と共に戦場を離脱。長篠の戦いは織田・徳川連合軍の圧勝で幕を閉じます。

長篠の戦い後の武田氏

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長篠で敗れた勝頼は、周辺諸国との連携を強化することで信長に対抗しようとしました。しかし、上杉家の家督争いである御館の乱に巻き込まれた勝頼は、北条家との関係を悪化させてしまいます。長篠で勝利した徳川家康は三河・遠江から武田の勢力を駆逐しつつありました。1582年、信長の後継者である信忠を総大将とした織田軍が武田領の甲斐・信濃に侵攻。武田勝頼は滅亡に追いやられてしまいました。

北条氏との関係悪化を招いた御館の乱

1578年、軍神ともたたえられた上杉謙信が急死しました。謙信は生涯、結婚しなかったので実子はいません。

この時、有力な後継者候補が二人いました。一人は上杉景勝。景勝は長尾政景の子で、謙信の姉である仙洞院です。1564年に長尾政景が急死した際、謙信の養子となりました。

もう一人は上杉景虎。景虎は北条氏康の子で、上杉氏と北条氏が同盟を結んだときに上杉家の養子として迎えられました。謙信の急死後、二人は上杉家の家督をめぐって激しく対立。戦いとなりました。

武田勝頼は北条氏政の要請で越後に出兵します。北条氏政としては上杉景虎を支援していたため、勝頼に支援を求めました。ところが、勝頼は上杉景勝から和議を求められると、これを受け入れて撤退してしまいます。以後、武田氏と北条氏の関係は大きく悪化、対立関係となってしまいました。

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