室町時代戦国時代日本の歴史

武田氏衰退の引き金を引いた「長篠の戦い」の背景・経緯・その後ー元予備校講師がわかりやすく解説

徳川家康の反撃

長篠の戦いで勝利した徳川家康は、武田方に奪われていた三河や遠江の諸城の奪還を図ります。家康は浜松城の北にあった二俣城を取り返しました。これで、信濃から武田軍が南下しても、すぐに浜松城が攻撃されることはなくなります。さらに、遠江東部に武田方が築いた諏訪原城も攻略。遠江に残る武田方の拠点は高天神城のみとなりました。

1580年、徳川家康は高天神城周辺に砦を築き、高天神城への補給線を絶ちます。その上で、5,000の兵で高天神城を包囲しました。高天神城からの救援要請に対し、勝頼は出兵しませんでした。出兵しなかった理由はいくつか考えられますが、御館の乱で北条氏との関係が悪化したことが最大の理由でしょう。

信長は高天神城の降伏を許さないよう家康に指示します。飢えに苦しんだ城兵は包囲していた徳川軍に最後の突撃をしますが敗北、全滅しました。高天神城に援軍を出せず見殺しにしてしまった勝頼の威信は低下します。

織田軍の甲斐・信濃侵攻と武田氏滅亡

高天神城陥落後、織田・徳川は積極的に武田方の武将を調略します。信玄の時代は強固な結束を見せた武田家臣団が崩壊し始めました。信長は正親町天皇に働きかけ、勝頼を朝敵と認めさせ、甲斐・信濃侵攻の大義名分を得ます。

1582年、信玄の娘婿の木曽義昌は勝頼を見限り、信長に忠誠を誓いました。義昌は信濃南部の木曽口の防衛司令官だったので、武田の防御ラインに大きな穴が開きます。

木曽義昌の帰順を大チャンスと考えた信長は家康、北条氏政らとともに武田勝頼を攻める甲州征伐を発動しました。織田軍は破竹の勢いで信濃に侵攻します。武田方の諸城は次々と織田軍に降伏しました。

伊那方面の最終防衛線である高遠城が陥落すると、勝頼に信長と戦う余力は残されていませんでした。

1582年3月、勝頼は重臣の小山田信茂を頼って岩殿城に向かいますが、小山田が謀反。勝頼は岩殿城にたどり着くことができず、天目山で自害。ここに、武田氏は滅亡しました。

長篠の戦いで敗れたあと、武田氏は守勢に回り滅亡に追いやられた

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長篠の戦いは巧みに防御陣地を築いた織田・徳川連合軍の圧勝で終わりました。戦いに敗れた勝頼は威信を回復するため、上杉氏との関係強化などを図りますが、かえってそれが裏目に出て北条氏の関係が悪化します。長篠の戦いだけが武田氏滅亡の原因ではありませんが、この戦いで多くの人材を失った武田氏の勢力は衰退しました。長篠の戦いは武田氏滅亡の引き金を引いたといえるのではないでしょうか。

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