宿敵、武田信玄との闘争
上杉憲政が景虎を頼って越後に落ち延びたころ、甲斐の武田晴信が隣国である信濃に勢力を拡大。信濃守護の小笠原長時や信濃の有力豪族である村上義清らが晴信に領地を追われ、景虎を頼りました。景虎は信濃北部の川中島、現在の長野市周辺に出兵して村上義清らを支援します。
以後、5度にわたって続く川中島の戦いの始まりでした。川中島の戦いは1553年の第一次から1564年の第五次まで5度にわたって続きます。
最も激しい戦いとなったのが1561年の第四次川中島の戦いでした。この時、武田軍は軍を二分。武田軍は一隊を川中島の八幡原に、もう一隊に上杉本陣のあった妻女山を奇襲攻撃させ、驚いた上杉軍を八幡原に追い落とし、挟み撃ちにするという作戦をとります。
事前にそれを察した上杉軍は、奇襲部隊の到着前に妻女山を下山。八幡原の武田本隊を急襲しました。不意を突かれた武田方は晴信の弟、武田信繁や軍師山本勘助らが戦死します。
政虎(景虎が改名)が武田本陣に切り込んで晴信と一騎打ちしたとの伝説が生まれるのもこの戦いです。結局、武田方の別動隊が上杉軍の背後を突いたため、後半は形勢逆転。上杉軍は川中島から撤退しました。
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相次ぐ謀反と出家騒動
北条氏康や武田晴信との戦いに明け暮れていたころ、越後国では家臣団の内部抗争や謀反の動きが相次ぎます。景虎は謀反が起きるたびに鎮定していきましたが、謀反の影には宿敵、武田信玄の姿がありました。
景虎は上杉憲政や村上義清らに救援を請われると、義によってそれを助けます。しかし、家臣の立場からすれば、他国の武将に救援を求められ、援軍として駆け付けたとしても自分たちの領地が増えるわけではありません。こうした、越後国人の不満はあったかもしれません。
自分の理想とそれに背を向けて自分の利益を主張する家臣たち、そのギャップに苦しんだのか、景虎は突如、春日山城を出奔。高野山を目指します。
慌てた家臣たちは景虎をおいかけ、必死になって出家を思いとどまるよう説得。家臣たちは景虎に「以後、二心を抱かない」という誓約書を出すことで、景虎を引き留めました。
軍神、上杉謙信
武田信玄が今川氏真を滅ぼし、武田と北条が敵対関係になると、謙信は北条氏康と和睦し同盟を結びました。畿内で織田信長が台頭すると、足利義昭の求めに応じて上洛の為、西へと兵を進め能登七尾城を攻め落とします。七尾城救援のため信長が軍を派遣すると、謙信は手取川で織田軍を迎撃。これを撃破します。本格的に兵を整え出兵準備を進めていた最中、謙信は急死してしまいました。
越相同盟と越中侵攻
1568年、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄し、今川領の駿河に侵攻しました。弱体化していた今川軍は武田軍の前にひとたまりもなく敗退。今川氏真は妻の実家である北条氏の元へと亡命しました。
北条氏康は武田信玄と敵対関係となり、西の武田、北の上杉、東の里見の三方から囲まれる体制となり、苦境に追い込まれます。一方、謙信も長年の関東出兵で家臣たちの不満が高まっており、北条氏との戦いを続けるのが難しくなっていました。
利害が一致した両者は1569年に越相同盟を締結します。1570年、謙信は氏康の子の一人を養子として迎え、景虎と名乗らせました。自分が初めに使っていた景虎の名を与えたということは、謙信は彼のことを気に入っていたのでしょうね。こうして、南方の安全を確保した謙信は西の越中へと兵を進めました。
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