その他の国の歴史中東

イランが悪の枢軸と呼ばれるきっかけとなった「イラン革命」背景などわかりやすく解説

中東の国であるイラン。この国は元々アメリカと仲が良い国だったのですが、今回解説していくイラン革命が起こると一気にアメリカとの関係を悪化させてしまい、挙げ句の果てにはブッシュ大統領によってイラン・北朝鮮に並ぶ悪の枢軸と呼ばれることになったのでした。 今回はそんなイランが悪の枢軸と呼ばれるようになったきっかけとなったイラン革命について解説していきたいと思います。

イランってどんな国?簡単にイランについて解説!

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イランとは北にカスピ海、南に紅海に面している中東の国です。日本人からしたら中東はあまり馴染みがないかもしれませんが、中東といえば真っ先に思いつくのがイスラム教と石油。

もちろんイランはイスラム教を信仰している国なんですが、実はイランの正式な名前はイラン・イスラム共和国といって名前にイスラム教のイスラムが入っている国なんです。

勘のいい方ならこれでわかるかもしれませんが、イランという国はイスラム教を国教としてイスラム教の聖典であるコーランを法律として扱っている国なんですよ。

つまりイランを支配しているのは日本みたいに政治を専門にしている政治家ではなく、イスラム教を研究しているイスラム法学者なんです。

ここからみてもかなり異色の国となっているのですが、そのイスラム法学者がイランを治めるようになったきっかけが今回の解説の中心となるイラン革命だったのでした。

次はイランでどうして革命が起こったのかをみていきましょう。

イランの近世の歴史について

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イラン革命が起こった要因として当時イランという国はイギリスとアメリカなどからかなり抑圧されていたということがありました。まずはそんなイランで革命が起こってしまった遠因ともなるイランの近世における歴史について見ていきましょう。

石油資源を発見したイギリス

かつてイスラム帝国の首都として繁栄した今のイランの地域は18世紀ごろになると産業革命によって急速に成長してきたイギリスと南下政策を推し進めていたロシアの侵攻にさらされるようになります。

この頃イランを治めていたカージャール朝はイギリスに反抗しようと日本のように近代国家としての基となる憲法を制定。イギリスとイランの対立が激化するようになりましたが、20世紀に突入するとイギリスがイランをより一層支配下に入れたくなりました。なんとカスピ海沿岸から石油が大量に発見されたのです。

1908年にイランにおいて最初の石油が発見されて以降、次々と油田が開発されていきました。

当時エネルギー革命でイギリスは戦艦などを中心に燃料を石炭から石油に変更したいこともあり、このイランにおいて無理矢理石油開発会社を設立します。

この当時、今では石油がバンバン取れるアメリカやサウジアラビアなどの石油は未発見。イランの石油は同じくカスピ海沿岸のバクーと肩を並べるほど石油が大量に取れる地帯として先進国から目をつけられてしまったのでした。

第二次世界大戦におけるイラン

こうして石油開発地帯として世界的に知られるようになったイランですが、こうなってしまうと大国の干渉をどんどん招く事態に陥ってしまいます。

例えば1921年にはイギリスと対立していたカージャール朝は第一次世界大戦の後遺症やイギリスの扇動などによってクーデターが勃発。

カージャール朝は倒され、その跡にパフレヴィー朝を建国するようになります。

ちなみに、国名をイランにするのはこのパフレヴィー朝の頃の1935年。その前まではペルシャと呼ばれていました。ペルシャ絨毯やペルシャ湾など今でもその名残は残っていますけどね。

しかし、クーデターが起こって親英派の王朝が成立したとしても、お隣のソ連はイランを支配することを狙っていました。

そこで第二次世界大戦中の1941年、イランがイギリスとソ連の敵であるドイツに寄っていることを理由に侵攻を開始。首都テヘラン付近の一部を除いて北側をソ連、南側をイギリスが治めるようになり、半植民地的な扱いを受けてしまいます。

これは第二次世界大戦が終結するとイギリスは撤退しましたが、これがイラン人にとっては屈辱的なものでのちに起こる民族感情に火をつける一つの要因となったのでした。

民主化するイラン、先進国によるクーデター

第二次世界大戦が終結して徐々に植民地支配の時代が終わろうとしていた時、イランでは撤退した後でも北側はソ連、南側はイギリスの石油会社がイランの石油を牛耳っていました。

そんな中、1951年にイランの首相となったモサデグという人はイギリスの石油支配からなんとか抜け出そうといきなりイランの石油を国有化。

自国の資源は自分のものにする意識が芽生えるようになります。

しかし、イギリスがこの状況を見て黙って見ているわけありません。イランが石油を国有化した2年後にイランの対立を煽ってクーデターを勃発させます。こうして石油国有化を断行したモサデグは失脚。

再びイギリスがイランの石油を牛耳るようになってしまいました。

コラム1.イランの石油を取ろうとした日本の海賊

イランが石油の国有化を断行した当時、イギリスはイラン製の石油を売れなくするために徹底的な締め出し政策を行います。

しかし、この締め出された石油に目をつけた企業が日本にありました。のちに日本でも有数の石油企業になる出光興産の創業者の出光佐三はサンフランシスコ平和条約によってようやく主権を回復した日本が経済を復興するためには安価な石油が絶対に必要と考えていたそうです。

そこで出光は当時安価で売られていたイラン製の石油に目をつけイランの国営会社と直談判。イギリスの妨害を防ぐためにイギリスの植民地から離れたルートで石油を買い取ったのでした。

このことは日本とイラクの友好関係を示す一つのきっかけとなりました。

日本でも「海賊と呼ばれた男」として有名になりましたね。

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国王による白色革命

こうして再びイギリスの影響を受けるようになったイランでしたが、イラン国王パフレヴィー2世はアメリカやイギリスから多大な援助を受けながら開発独裁を行なっていく白色革命を断行するようになりました。

白色革命の白色には皇帝の命令という意味が込められており、実際にこの改革ではパフレヴィー2世の上からの指導で土地改革だったり、婦人参政権の確立、国有工場の払い下げなどによる産業の拡大などを行いイランの国力を上げていきます。

しかし、その一方でこの改革に反対しているイランの宗教家や学生運動を厳しく取り締まり、民衆の蜂起などはことごとく鎮圧されてしまいました。イラン革命の主人公であり、のちのイランの指導者になるホメイニ師もこの時イラン政府によって逮捕され国外に追放されるようになります。

この白色革命によって国内ではイラン国王とアメリカに対する態度や民主化を求める動きが強まっていき、最終的には革命という形で爆発することになるのです。

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