コロンブスによるアメリカ大陸の発見
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一方、スペインも大西洋を西回りでインドとの交易に関心を持っていました。当時誰も行きたがりませんでしたが、イタリアのジェノヴァ生まれのコロンブスが名乗りを上げ、スペインのイザベル女王の援助によって冒険に旅立ったのです。そして、ついにバスコ・ダ・ガマが喜望峰を見つける6年前の1492年にカリブ海に到達し、西インド諸島のサンサルバドル島を発見しました。コロンブスは最初、この島をインドと思い込み、これらの島を西インド諸島と名付けたのです(今もその名で呼ばれています)。まだ、この当時は南北アメリカ大陸の存在はヨーロッパでは知られていませんでした。
ただ、実際には、それよりも500年以上前には、ノルウェーのバイキングたちがカナダに到達していたと言われています。
マゼランによって地球は丸いことが証明された
そして、最後に真打ちとして登場したのが、マゼランでした。彼はポルトガル人で、航海者、探検家です。1519年にスペインの艦隊を率いて、西回りの海上航路による世界一周に旅立ちました。もともとポルトガル人でしたが、スペイン王の信任が厚く、スペインの艦隊5隻を任され、スペインのセビリアを出発しました。そして、ついに地球は丸いことが証明されたのです。
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マゼランの世界一周はこうして実現した
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コロンブスによってアメリカ大陸が発見され、南アメリカはスペインが侵略の開始していましたが、本当のインドに至る航路はまだ見つかっていなかったのです。バスコ・ダ・ガマが喜望峰回りのインド航路を発見して以降、ポルトガルはこの航路を使ってインドとの香辛料貿易を独占し、ポルトガル海上帝国と言われていました。
マゼランもポルトガルの航海者として、ポルトガルの植民地拡大に貢献しています。しかし、マゼランは、言われなき讒言によって汚職の罪に問われて、ポルトガルを去らざるを得なくなっていたのです。
この当時、インドの香辛料や中国の絹織物などに対するヨーロッパの需要は大きいものがありました。スペインでは、コロンブスの西インド諸島の発見、アメリカ大陸の発見によって、西回りでのさらなる幻のアジア産物を求める機運が高まっていたのです。ポルトガルの東回り航路による香辛料貿易の独占に対して、スペインは西回りでの貿易航路の開拓の必要性が説かれていました。
そのような状況の中で、ポルトガルを追放されたマゼランを受け入れたのがスペイン国王フェルナンドだったのです。フェルナンド国王は、マゼランを信任して、大西洋の西回りにアジアに到達するルートの開拓のために、マゼランに艦隊5隻を預けて航海に向かわせました。
南アメリカ沿いに南下してマゼラン海峡を発見
マゼランは、スペインの5隻の艦隊を率いて、最初、アフリカ東岸を離れ、南アメリカ大陸の東岸に沿って南下していきました。そして、ついに南アメリカの南端になるマゼラン海峡を発見して、そこを通って太平洋に到達したのです。その途中では、パタゴニア地方に停泊中には船員たちの反乱にもあいましたが、それを克服して南下してついにマゼラン海峡を発見しました。パタゴニアは、現在はチリとアルゼンチンにまたがる地域で、風光明媚な地域として知られていますが、自然環境は非常に厳しく船員の反乱につながったのです。その際に、マゼランを救出してくれた原住民をパタゴンと名付けたことが、パタゴニアの地名の由来になっていると言われています。
初めて西回りで太平洋に出たマゼラン_フィリピンで落命
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そして、ついに西回りで最初に太平洋に出たヨーロッパ人になったのです。そして、彼は、太平洋を北上して1521年にフィリピン諸島に到達しました。このフィリピン諸島では、マゼランはセブ島に滞在し、キリスト教の布教に力を入れたのです。しかし、そのために強引な布教活動をしたため、地元民に反感を持たれてしまいます。地元民たちは大勢でマゼランを取り囲み、戦闘になって、ついにマゼランは戦死してしまったのです。
マゼラン自身は世界一周をできなかった_部下たちがポルトガルに帰還
マゼランはついにフィリピンで命を落としましたが、彼の艦隊の部下たち60名は、残ったビクトリア号でフィリピンを発ちました。そして、喜望峰を回って1522年9月についにスペインに帰り着いたのです。喜望峰回りのコースは、ポルトガルの海上帝国となっていたため、スペイン船のビクトリア号はさまざまな困難にあったものの、3年をかけて帰ってきたのでした。マゼランがスペイン王に見送られて出発したときは、5艘の艦隊に270名が参加していましたが、帰りついたときはわずか18名になっていたのです。
マゼラン自身はついにスペインの地にはたどり着けなかったものの、彼の部下たちによって世界一周が達成されました。