室町時代戦国時代日本の歴史

どうして嫌われ者に?真面目すぎた男「石田三成」の生涯をわかりやすく解説

やはり戦は苦手?忍城攻めでの失態と島左近のスカウト

小田原征伐の際、三成は忍城(おしじょう/埼玉県行田市)攻めを秀吉から言いつけられました。しかし難攻不落の忍城をまったく落とすことができず、苦肉の策として水攻めをしましたがこれもうまくいかず、援軍の助けを借りてようやく開城させることができたのでした。これが、後世における「三成=戦下手」のイメージを決定づけたと考えられます。

しかし、三成は自分が戦に向いていないことはちゃんと自覚していたようです。

歴戦の名将として名を馳せながらも、当時浪人だった島左近(しまさこん)という武将を、三成は何度も頭を下げてついに迎え入れることに成功しました。一説には、三成が当時もらっていた4万石のうち2万石を左近に与えるという異例の待遇を約束したとも言われていますね。

これには秀吉も驚き、「主人と家臣の禄が同じなどとは聞いたことがないわ!」と言ったとか。

驚いたのは世間の人々も同様で、

「三成に 過ぎたるものが ふたつあり 島の左近と 佐和山の城」

という狂歌が巷で流行ったとも言われています。ただ、そこまでして左近を迎えた三成の態度は、おそらく真面目で誠実なものだったのでしょう。だからこそ左近もそれに応じ、最後まで三成に従ったのです。

加藤清正らとの対立が生まれた文禄・慶長の役

戦では前線に出ず裏方に徹した三成は、前線で戦うバリバリの武闘派の武将たちとはそりが合いませんでした。

その亀裂が決定的となったのが、朝鮮半島へ出兵した文禄・慶長の役においてのことです。

ここでは加藤清正(かとうきよまさ)が大陸で大活躍したのですが、それが三成からすれば「組織の秩序が乱れた上に、無駄に兵の損失を招いた」という印象だったのですね。そのため、三成は秀吉に対し「清正が和睦の妨げになっていて困っております」と、至極真面目に報告してしまいました。そのため、清正は秀吉の怒りを買って謹慎処分となってしまい、三成を深く怨むこととなりました。

真面目に仕事に取り組んでいるからこその報告なのですが、ある意味融通が利かないのが三成の欠点でもありました。これが、「俺たちは最前線で命を懸けて戦っているのに、あいつは何だ!」という反発を受けてしまったのです。その筆頭が、先に述べた加藤清正や福島正則(ふくしままさのり)らでした。

三成と清正らの間に入った亀裂は、やがて修復しがたいものになっていきます。それがついに、大きな戦を招いてしまうこととなるのでした。

大義を掲げて起こした関ヶ原の戦いだが、ミスや誤算の連続

image by PIXTA / 46586521

三成ら官僚肌の「文治派(ぶんちは)」と、戦場で戦う武将たち「武断派(ぶだんは)」は、秀吉の死後に対立をどんどん深めていきました。それは徳川家康の台頭によって加速し、ついに関ヶ原の戦いが勃発することになります。真面目すぎた三成は、自らの信じる正義によってだんだんと追い込まれていったのでした。

文治派と武断派の深刻な対立

慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、その息子・秀頼を支えるために生前に指名された有力戦国大名5人による「五大老」と、三成ら官僚の代表5人による「五奉行」によって政権が運営されていくこととなりました。

しかし、三成ら官僚肌の武将たち「文治派」は、それ以前から徐々に亀裂を深めていた「武断派」との対立を決定的なものにしてしまいます。加えて、徳川家康が台頭し、秀吉の遺言に背くような行動を始めていたため、豊臣政権は決して盤石なものではなくなってきていたのです。

そして、武断派の諸将たちはなんと、三成を襲撃するという事件を起こしました。ただ三成はここで難を逃れ、家康の仲立ちを受けて事件はいちおうの収束を見ましたが、これによって彼は奉行職を退き、佐和山へと引っ込んでしまったのです。

とはいえ、三成はこの時黙って退くつもりではありませんでした。中央政権から離れ、自らが再び登場する時を待っていたのです。家康への敵愾心はどんどん燃え盛り始めていたのでした。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: