日本の歴史江戸時代

宮本武蔵を恐怖の底に陥れた巌流島での決闘の真実とは

巌流島といえば宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した場所であり、武蔵が一撃で小次郎を倒したことになっています。しかし1対1の決闘ではなく、決闘直後に意識を失っていた小次郎を武蔵の弟子たちが撲殺したという説もあるほどですが、実は武蔵の想像を超えた事件が起きていました。

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での決闘の通説

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小倉藩の剣術指南役として仕官していた佐々木小次郎に、武者修行中の宮本武蔵が決闘を申し込みました。小次郎と武蔵双方の門弟の間でお互いの武芸論について論争が起きたことが発端でした。決闘場所として巌流島が選ばれ、小倉藩の藩士立会の元で決闘の日程が定められました。決闘当日、先に到着した小次郎がいくら待てども、武蔵の姿がありません。武蔵は2時間ほど遅刻することで小次郎に対して精神的にゆさぶりをかけたのです。感情が高ぶった小次郎に対して、船の櫂を削って仕上げた木刀の一撃で小次郎を絶命させたとされています。

佐々木小次郎は小倉藩主細川忠興を脅かす存在だった

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佐々木小次郎は小倉地方の豪族であった佐々木一族の末裔だったとされ、豊臣秀吉の時代にほぼ全滅した佐々木一族の生き残りだったのです。後から統治者として来た細川忠興は小倉地方を治めるために、佐々木小次郎を剣術の指南役として迎え入れることで地元勢力を利用していました。しかし時が経つにつれ、細川忠興は小次郎に佐々木家再興の意思があることを知ってしまうのです。小倉地方統治のために佐々木家を利用したことがかえって、佐々木家による小倉藩乗っ取りにつながると忠興は危惧しました。この事態をどうしても避けるために、何としてでも小次郎を排除するための策を練り始めたのです。

佐々木小次郎は処分のために決闘に引きずり込まれた

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細川忠興にとって、佐々木小次郎を処分するために何らかの言いがかりをつけて、闇に葬るには無理が出てきます。佐々木小次郎は剣の達人であり、小倉藩士では複数といえども、勝つ術がありません。ましてや軍隊を率いて小次郎を取り囲んだ場合には、佐々木家に慣れ親しんだ地元住民を敵に回すことになってしまいます。したがって武芸者には武芸者を当てる方が確実であると判断したのです。通説では小次郎の弟子と武蔵の弟子が口論となって白黒つけることになったとされていますが、原因はなんとでも捏造できたでしょう。要は小倉藩からすれば、佐々木小次郎を宮本武蔵との決闘の場に引きずり込むことができればいいわけです。

佐々木小次郎も兵法家であった

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細川忠興が佐々木小次郎に対して危機感を抱いた当初、小次郎を始末するために、ありとあらゆる手が加えられました。その中でも事故死に見せかけるための仕掛けを指南役の控えの間に施したり、食べ物の中に毒殺に見られないような薬を混ぜ、時間をかけて衰弱させることを試みたりしていたのです。しかし兵法家である小次郎は全て見破っていました。兵法家は手段を選ぶことなく、勝負に勝って生き残ることを目的とするものです。小倉藩はありとあらゆる手立てを使って、佐々木小次郎を暗殺する手立てを講じましたが、全て事前に察知されてしまいました。残る手段として宮本武蔵と決闘に持ち込むしかなくなったのです。

なぜ巌流島が選ばれたのか

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宮本武蔵を佐々木小次郎との決闘に持ち込むべく、武蔵の調略がいろいろとはかられました。しかし武蔵も小次郎同様、兵法家であり小倉藩の策略には乗ることはありませんでした。そこで小次郎及び武蔵双方の弟子が調略され、それぞれの武芸論の論争に持ち込まれたのです。武芸における理論は武芸者にとって魂そのもの。当然双方の弟子は互いの師匠の正当性を主張し合うことになります。ついには藩の命令が下り決闘を行わざるを得なくなったのです。一方、武蔵や小次郎は、お互いの武芸が弟子たちによる論争を引き起こし、決闘により白黒つけるまで発展していることを知りませんでした。

小倉藩にとって、決闘に持ち込むだけではまだ足りないものがありました。小次郎は兵法家です。武蔵との決闘に破れた場合でも、トドメを刺される前にどのような手段に出るかわかりません。決闘場所が陸地では、小次郎が武蔵を通じて小倉藩によって始末されることを悟った瞬間、その場から逃亡し、後でどのような手段で復讐に出るかわかりません。そのためにも逃亡が不可能な状態にしておくために、果たし合いの後も絶対に逃れることのできない、周囲を海で囲まれた島である必要があったのです。

佐々木小次郎処分の後、宮本武蔵も口封じの対象だった!?

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佐々木小次郎の始末のために決闘が仕組まれたわけですが、宮本武蔵側には、勝利した暁には小次郎に代わって剣術指南役として仕官できるという話が持ち込まれていたのです。宮本武蔵は決闘そのものには乗り気ではなかったものの、小次郎に勝利することで仕官への道につながるのであればと決闘を引き受けます。武蔵が木剣で望んだ理由は、仕官が叶うための決闘であり、小次郎に敵意があるわけではないため、トドメを刺す必要がなかったからです。そしていざ小次郎を一撃で倒した後に、そこで起きた光景を目の当たりにして武蔵は唖然とします。自分が小次郎との決闘に持ち込まれた理由と、決闘後に自分自身も口封じの対象であることを瞬時に悟ったのです。これも武蔵の兵法家として培われた勘によるものでした。

宮本武蔵は単身で乗り入れていた

一説では「佐々木小次郎は宮本武蔵による一撃で絶命したのではなく、しばらく気を失って倒れていただけでしたが、息を吹き返した後に、隠れて上陸していた武蔵の弟子たちによって撲殺された」とも言われています。しかしこの説の通り、弟子たちが小次郎を取り囲むことは現実的に無理があるでしょう。それは小倉藩の立会いによる決闘であるからです。武蔵の弟子たちが倒れた小次郎を取り囲んだ時点で、既に武蔵と小次郎の決闘ではなくなってしまい、小次郎に勝利したとしても武蔵の仕官は叶わなくなります。師匠の仕官がかかっている決闘に水を差すようなことを弟子たちが果たして行うでしょうか。武蔵の弟子たちが上陸することは意味がないものであり、武蔵は単身で乗り入れていたのです。

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