平安時代日本の歴史

紀貫之が書いた『土佐日記』と彼の生きた平安前期の歴史についてわかりやすく解説

平安時代の地方制度

平安時代、地方は朝廷から任命された国司たちが現地の豪族たちである郡司と協力して支配する体制をとっていました。律令政治がしっかり行われていた奈良時代は、土地と人民は国が管理します。

しかし、奈良時代の中ごろに出された墾田永年私財法の制定後、貴族や寺社の私有地である荘園が各地に作られるようになりました。都から派遣される国司たちは荘園化されていない公領を再編し、そこから税をとります。

また、国司は荘園についてもたびたび役人を派遣して税を取り立てようとしました。平安時代の中ころになると、朝廷は地方支配にあまり口を出さず、決められた税さえ納めればあとは国司の好きなように統治してよいと言う態度をとります。地方政治について大きな権限を認められた国司の中には、郡司や農民たちに重税を課すものも現れました。

地方政治の乱れと武士の反乱

朝廷が地方支配を国司に放任するようになると、地方の政治は乱れ始めました。そのため、国司の強権的な支配や、治安の悪化によって発生した盗賊被害から身を守るため、農民たちは武装し始めます。これが、武士の始まりでした。

特に、中央から遠く武装した開拓農民が多かった関東平野では有力な武士団が形成されます。939年、下総に本拠地を持つ武士の平将門は一族の領地争いや横暴な国司に対抗するために兵を挙げ、関東一円を占領。新皇を名乗って自立を図りました。

将門の乱はまもなく鎮圧されますが、朝廷の支配に対する地方の不満は高まる一方でした。国司として土佐に赴任した紀貫之も在地の領主たちから反発を受けたかもしれませんね。

『土佐日記』の内容、3選

image by PIXTA / 40219114

土佐日記は、紀貫之が国司を勤めていた土佐国(高知県)から、平安京に帰り着くまでの様子を平仮名まじりの文で書いた日記文学です。55日間の旅程を紀貫之が女性の書き手になりきって書いたもので、早く都に帰りたいと言う思いや、任地である土佐でなくした娘を惜しむ心情などを述べました。

有名な冒頭分である「門出」

「男もすなる日記といふものを、女もしてみんとてするなり」というのは『土佐日記』の有名な序文ですが、現代人の感覚からしてもインパクトがある冒頭文ですね。

男性も(漢文で)書く日記というものを、女性である私も(仮名文字で)書いて見ようと思う。というのは、漢文だけでは言い表せない大和言葉を平仮名で表現しようという紀貫之の意気込みがこめられているような気がします。

日記の中には国司が交代し、退任してしまうと「今はもう関係ない人だから」といって見送りをしない人々のことも描かれていますが、「去るものは日々に疎し」という今も昔も変わらない人の様子を垣間見ることが出来ますね。それでも、紀貫之一行は多くの人の見送りを受け、都への玄関口である和泉国(大阪府)に向けて出発しました。

室戸岬付近の室津の月を見て、阿倍仲麻呂を思う

土佐から京都までの旅程の大半は船旅でした。陸上交通が現代ほど発達していない平安時代において、船は重要な交通手段です。しかし、船の移動は天候に左右されがち。紀貫之一行も悪天候で何度も足止めされました。

紀貫之一行は土佐湾沿いを南東に移動しますが、室戸岬の手前にある室津でも悪天候に見舞われ停泊を余儀なくされます。早く都にたどり着きたいと願う人々は、悪天候による足止めでいらだっていました。

停泊中の夜、海から月が現れます。筆者は月を見て、唐に渡ったまま帰国できずに亡くなった阿倍仲麻呂のことを思い出しました。仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の月に出でし月かも」の句を引用しつつ、偉大な歌人でもある仲麻呂に想いを馳せます。

苦労の末、都にたどりついたときのことを描いた「帰京」

長い航海の果て、和泉国にたどり着いた一行は大阪の難波に至りました。そこから、淀川をさかのぼり京都を目指します。紀貫之一行が京都に到着した時、日は既に沈み夜になっていました。

夜とはいえ、月夜だったので家の様子はよく見ることができます。国司の任期は通常4年、往復の期間も合わせると4年半から5年は留守にしているので荒れていても不思議はないのですが、隣の家の人にあずかってもらっていたので、そこまで荒れないだろうと考えていました。しかし、現実には非常に荒れ果てていてがっかりします。

荒れた庭に生えていた松の片方がなくなっていました。その松を見て、この家で生まれ、任地の土佐で亡くなった娘のことを思い出し、悲しい気持ちになります。最後には、いろいろ書きつくせないこともあるが、何はともあれ、日記は破り捨ててしまおうという文で『土佐日記』をしめくくりました。

次のページを読む
1 2 3
Share: