日本の歴史

遷都は辛いよ…日本の遷都の歴史と物語

聖武天皇による遷都の旅【平城京〜恭仁京〜難波京〜紫香楽宮〜平城京】

平城京に都が移ってから30年。ようやく日本の情勢も落ち着いてきたと思いきや、当時の天皇である聖武天皇は困り顔でした。この当時、権勢を誇りかけていた藤原氏の藤原広嗣が太宰府にて反乱を起こし、さらには都を中心に伝染病が流行。聖武天皇はこの日本を揺るがす大事態をなんとか抑えるために平城京から離れて新しい都を建設しようと計画を立てていきます。

聖武天皇は740年に東に向かって行幸を開始。三重県や岐阜県などをめぐり平城京に帰ってくると思いきや、なんといきなり京都府の方面へと向かい、今の京都府木津川市あたりの一帯に都を移すことを宣言しました。

しかし、聖武天皇はこの地はよくよく考えてみると合っていなかったのか、2年後に近江国甲賀に新しく離宮を建設。翌年には紫香楽宮として遷都を行い、この地にて巨大な大仏を作ることを命令しました。

しかし、紫香楽宮があった甲賀は平城京と比べるとかなり山奥。これでは貴族や民衆の支持を得ることは難しく結局翌年に難波京に遷都。そしてまた翌年には平城京へととんぼ返りを果たすことになります。

聖武天皇はなんだかんだでこの平城京に定住することに決定。紫香楽宮に建てようとした大仏も平城京付近と東大寺に建てられいわゆる奈良の大仏として現在も残っています。

仏教から離れたい!【平城京から長岡京】

なんだかんだで平城京に戻っていきましたが、この時代には仏教によって日本を守ろうとする鎮護国家の思想が強くなっていき、最終的には僧侶の力が急速に伸びるようになります。

特に称徳天皇の時には道鏡というお坊さんが権力を牛耳るようになり挙げ句の果てには宇佐神宮の御信託を根拠に天皇になろうとする始末。この計画は最終的には頓挫することとなるのですが、この事件によって藤原氏や皇族はなんとかして仏教の力を退けたいと強く思うようになりました。

そして784年に当時の桓武天皇は山背国の長岡に遷都。ここを選んだ理由は近くに淀川があり水運がかなりいいことからのものでした。

早良親王の怨霊【長岡京から平安京】

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長岡京に遷都した桓武天皇でしたが、この長岡京の造営は一筋縄ではいきませんでした。まず、この当時長岡京の造営の総責任者であった藤原種継が何者かによって暗殺。この暗殺に激怒した桓武天皇は首謀者を捜査することとなったのですが、この時容疑者としてあげられたのが桓武天皇の弟であった早良親王でした。実際には早良親王がやったのではなかったのですが、桓武天皇は早良親王が行なった犯行と断定。早良親王を廃嫡(跡継ぎにしないこと)にして淡路島に流されることが決定しました。

しかし、早良親王からしたらこんなの濡れ衣としかいえません。早良親王は抗議のために食事を摂らず淡路島に着く前に恨みを持ちながら亡くなりました。

しかし、恐ろしいのはここからで、この早良親王の死から長岡京は日照りが続き飢饉が頻発。さらには疫病も大流行して桓武天皇の身の回りの人が相次いで亡くなるという不幸な出来事も起こり、さらに伊勢神宮の発火、皇太子の発病もあり桓武天皇は陰陽師に頼んでこの一連の不幸の原因を占わせます。

その占いの結果によるとこの一連の出来事は早良親王の怨霊のせいという結果が出たそうで、桓武天皇はいち早く早良親王の罪を許すという儀式を行いますが、なんか逆撫でしちゃったそうで今度は淀川が大氾濫を起こして長岡京は甚大な被害を受けてしまいました。

こうなるとこのまま長岡京に居座ることは不可能だと判断した桓武天皇は遷都を決意。和気清麻呂の発議もあり長岡京から少し北に行った葛野郡に都が置かれることが決定しました。

そして794年に桓武天皇は平安京に遷都し、400年続く平安時代がスタートしたのでした。

平清盛の横暴【平安京から福原京】

平安京の遷都から300年。この期間は平安時代と呼ばれる貴族中心の文化が栄え平安京も繁栄を極めていました。しかし、時代が下って末期に入ると平安京は貴族の邸宅がある右京に対して左京は廃れ、さらに疫病や飢饉などで都の勢いは一気に落ち込むようになりました。

そんな中、平安京の北東を守っていた比叡山延暦寺の僧兵たちが強訴を行い始め朝廷を脅かし始めます。これを退けた北面の武士のリーダーがこの福原京遷都の中心となる平清盛でした。

平清盛は保元の乱と平治の乱を経て権力を確立。武士として初めての太政大臣に就任して平氏の一族も権力を握るようになり「平氏にあらずんば人にあらず」という名言も残すほどの横暴ぶりでした。

そんなある日、平清盛はこれまで都であった平安京から平氏の拠点の一つであった大輪田泊からほど近いところに都を置くという計画を立てて孫である安徳天皇とともに遷都。

これは後白河上皇や高倉上皇の反対を押し切って平清盛が行なった独断行動だということもあり、これは民衆から強い反感を買ってしまいました。

さらにこの年に源氏が以仁王の反乱を決起に挙兵すると福原の遷都は立ち消えとなり最終的には平安京にとんぼ返り。その翌年には平清盛は熱病によって死去し完全にこの福原京への遷都は立ち消えとなりました。

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