日本の歴史江戸時代

5分でわかる「鎖国」どうして始めた?実態は?メリット・デメリットは?わかりやすく解説

3-1.支配組織の硬直化

江戸時代中期までにはオランダの進んだ文明を紹介する蘭学が一部の人々によっておこなわれていました。しかし、平和な時代が長く続いた18世紀になると、江戸幕府の興味は国内の治安のみに偏り、幕府中枢の老中は外国の進んだ文明を取り入れようとする姿勢はなくなります。すなわち、平和の定着に安心した幕府の老中は現在の日本の官僚組織と同様、新しいものを取り入れるよりも、安定した社会の維持のみにしか関心がなくなったのです。自分たちの利権を維持することに必死でした。

そのため、蘭学は幕府中枢によって警戒すべきものとなり、否定されて庶民にも情報は行かなくなっていたのです。これは、鎖国が長期間にわたっておこなわれた場合には、組織的に情報が入ってこなくなる弊害が生じていたことを示しています。

3-2.外国の先進的な文明・技術革新から取り残される

鎖国によるもう一つのデメリットとしては、外国の先進的な文明、技術革新から取り残されるという点があります。日本でも、外国船打ち払いという攘夷を実行した長州藩は、下関戦争でイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四ヶ国艦隊にこっぴどく叩かれているのです。大砲や艦船の能力に大きな技術的な差が明らかになり、同じころイギリスとの薩英戦争で砲撃された薩摩とともに、攘夷が不可能であることを認識させられています。

西洋文明の先進性を知らずに、孝明天皇をはじめ、攘夷派は外国船を打ち払えると信じていたのです。

3-3.政治力の後退

江戸幕府も中国の清王朝も、外国からの情報は取ろうと思えばとれました。しかし、政治に携わる官僚たちは、長い平和になれて、自分たちの立場を守るのに必死で、新しいものを取り入れようとする進取の気質を無くしていたのです。これによって、保守的な政治家、官僚ばかりになってしまい、政治的な決断をする力そのものが後退してしまいます。これは、鎖国のデメリットであったと言えるでしょう。

そのため、鎖国による最大のデメリットは政治の中枢が情報に対して疎くなってしまい、外国が来てもすぐに戦争で追い払えるという錯覚が生じていたのです。

3-4.社会が大きく変わるときに表面化すること

政治組織が硬直化していても、社会に大きな変化が生じなければ、そのデメリットは表面化しません。しかし、時代が大きく動くと鎖国のデメリットは表面化してくるのです。

ヨーロッパ列強がルネサンス、産業革命、市民革命によって古い体質から脱皮して、新たな海のシルクロードを開拓してアジアに姿を表し始めました。それによって日本も中国も大きな変化の渦に巻き込まれたのです。

中国の清王朝はアヘン戦争以降、ヨーロッパ列強国の餌食になっていきました。中国が先にその餌食になったことによって日本は国が変わる余裕が生まれたといえるでしょう。

4.日本の鎖国の実態とは?

では、実際に日本の江戸時代の鎖国の実態はどのようなものだったのでしょう。その実態を見ていきましょう。

4-1.出島によって海外の情報が入っていた

image by PIXTA / 19604053

海外、とくに欧州では、その200年間に自由主義が発展するとともに、大航海時代や産業革命によって文明や技術という面では大きな技術革新、発展が見られました。長崎の出島にはそれらの情報は入ってきていたのです。

しかし、日本の政治中枢の人たちや庶民にはこの先進の文明は伝わりませんでした。

4-2.日本文化は海外に紹介、でも西洋の先進文明は日本に伝わらなかった

江戸初期の徳川家光をはじめとした幕府中枢の人たちは、鎖国によって情報が伝わらなくなるというデメリットをわかっており、それを避けるために出島を作ったのです。

江戸時代の象徴的な現象として、シーボルトなどによって日本の固有の文化である浮世絵などはヨーロッパに紹介されて高い評価を得ていました。絵画などにおいて印象派などに大きな影響を与えていたのです。

しかし、西洋の産業革命を通じて近代産業や軍事技術の近代化の成果は日本国内にはほとんど取り入れられていません。長崎の出島にオランダを通じてさまざまな先進文明の情報はもとらされたものの、それを幕府中枢はシャットダウンして、支配層や大名、庶民などに広まることはなかったのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: