日本の歴史江戸時代

5分でわかる「鎖国」どうして始めた?実態は?メリット・デメリットは?わかりやすく解説

4-3.徳川幕府が蘭学を軽視した

江戸時代中期までにはオランダの進んだ文明を紹介する蘭学が一部の人々によっておこなわれていました。しかし、平和な時代が長く続いた18世紀になると、江戸幕府の興味は国内の治安のみに偏り、幕府中枢の老中は外国の進んだ文明を取り入れようとする姿勢はなくなります。すなわち、平和の定着に安心した幕府の老中は現在の日本の官僚組織と同様、新しいものを取り入れるよりも、安定した社会の維持のみにしか関心がなくなったのです。自分たちの利権を維持することに必死でした。

5.もともと鎖国していた中国の明・清ではどうなった?

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では、もともと日本より早く鎖国していた中国の明や清王朝はどうだったのでしょう。それを見てみましょう。

5-1.北方はばっちり、でも南部の海岸線は無防備

もともと、鎖国は中国の明や清国がおこなっていたもので、日本も徳川幕府によって同じように鎖国政策がとられたのです。しかし、中国王朝では、侵略を受けるのは北方民族であるという認識だけがあり、北方においては万里の長城などが明の時代には完成しています。

しかし、南部の海岸線に関してはほとんど無防備でした。

欧州先進国がアジアに植民地獲得のために南の海上から進出しても中国王朝にはそれを防ぐことは難しかったのです。

5-2.民間では南部海岸線で西洋と交易が行われた

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ヨーロッパでは、ルネサンス以降の文明開化の成果として、15世紀末になるとアフリカの喜望峰回りの航路が発見されます。さらに17世紀になると、ヨーロッパの先進諸国は、産業革命で開発された進んだ文明利器を使ってインドなどの南アジアや東南アジアを植民地化するようになったのです。

イギリスは、中国南部の広州、厦門なに拠点を持って、ヨーロッパで需要の大きかった中国のお茶、陶器などを買い漁っていました。

また、フランスなどは今のベトナム、ラオスなどの東南アジアの植民地化をめぐって中国の清王朝と対立するようになります。

5-3.ヨーロッパのアジア進出を許す

中国の清王朝では、民間での西洋との交易は南部海岸線で活発におこなわれたものの、ほとんど海外情報は王朝には集められませんでした。科挙によって構築された硬直的な官僚組織によって旧態依然とした政治がおこなわれており、その組織維持を第一に掲げる官僚によって西洋文明の進出は阻止されていたのです。

その結果、清国はアヘン戦争を圧倒的な近代兵器のイギリスに負け、その後のアロー戦争にも負けて香港などの割譲や多額の賠償金を支払わざるを得なくなりました。それは清王朝の滅亡のきっかけになったのです。

6.同じ政策をしていた日本と清の違いは何だった?

日本は中国とは違い、西洋先進国の植民地化や利権を収奪を受けていません。徳川幕府は倒れましたが、逆にのちに朝鮮半島から中国東北部まで進出して植民地化をしています。この日本と清国との違いはどこにあったのでしょう。

6-1.ポイントその1 攘夷論から開国論への早期転換

日本では、ペリーが来航して開国した当時、孝明天皇の外国嫌いもあって攘夷論(外国を打ち払え)が主流を占めていました。しかし、長州、薩摩が外国艦隊にこっぴどくやられてしまうと、いつの間にか攘夷論は、開国討幕に転換してしまいます。

結果的には、それが幸いして短期間のうちに幕府を打ち破り、外国に付け入る隙を与えないうちに、明治維新を迎えることができたのです。

鎖国の持つデメリットを西洋諸国に知られる前に、日本自身が近代化への転換を果たしたといえるでしょう。

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