室町時代戦国時代日本の歴史

「甲相駿三国同盟」とは?戦国時代最初で最後の三国間平和条約をわかりやすく解説

戦国時代には珍しかった平等条約

戦国時代には数多くの軍事同盟が結ばれ、戦国大名の政略の手段として用いられてきました。しかし、甲相駿三国同盟ほど平等な条約はあまり例がなく、しかも3家の大名同士で結ばれたことは特筆に値します。ちなみに、戦国時代の主な軍事同盟は下記の通りですが、完全な平等ではなかったことに注目です。

 

織田信長と徳川家康が結んだ【清州同盟】は、信長の下に家康がつくという従属的同盟。

浅井と朝倉の同盟は、長浜城歴史博物館参事の太田氏によれば、そもそも存在していなかったという説が有力。

足利義昭が策謀した信長包囲網に至っては、義昭が乱発した御内書に対して各勢力が反応しただけであり、軍事同盟とは言えない。

越後の上杉と関東の北条が交わした越相同盟も、実際には有効に機能していない。

 

以上のことからみても、甲相駿三国同盟ほど各家の利害が一致し、有効に機能し、最強の結びつきと呼べるものはありませんでした。

甲相駿三国同盟が早くも破綻する

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3家同士の縁組は、各家の利害が完全に一致し強固なものになると見えました。しかし、ほんのわずかなほころびが同盟を破綻させることになるのです。それが「東海一の弓取り」と謳われた今川義元の死だったのでした。同盟締結からわずか15年。その瓦解はあっけないものでした。

今川義元の死と義信事件

同盟破綻の発端は、まず1560年の今川義元の死にありました。尾張奪取を目指す今川軍は順調に進撃を続けますが、【桶狭間の戦い】において義元があっけなく討ち死に。今川の影響下に置いていた松平元康(のちの徳川家康)の自主独立すら許してしまいました。今川氏の威勢に陰りが見え始めたのはこの頃のこと。

いっぽう武田信玄は、一連の越後上杉氏との戦いが終息して信濃(現在の長野県)計略が一段落すると、西上野(現在の群馬県西部)へ侵攻して版図を拡大しました。

次に信玄が目を付けたのが今川氏領国への侵攻でした。加えて織田徳川との同盟にも執着し、着々と布石を打っていたのです。しかし、そういった動きに反発を強めていたのは嫡男の武田義信でした。

織田との同盟の証として信長の養女を妻に迎えていた異母弟の勝頼の存在。そして自身の正室は義元の娘。そんな不義理をすることなど彼には毛頭ありません。義信の立場は微妙なものになっていきました。

ついに武田家中は駿河侵攻派と今川擁護派の二つに割れ、結局は義信の廃嫡と幽閉、義信派(今川擁護派)の家臣たちの粛清によって決着が着いたのです。

武田軍、ついに駿河へ侵攻

義信一派を粛清し、後顧の憂いを失くした武田信玄は、1568年ついに駿河へ侵攻を開始しました。同盟関係を結んでいた徳川軍も西から同時に攻撃を開始し、瞬く間に今川氏の領国は席巻されて、さしたる抵抗もできないまま当主今川氏真は家臣の持ち城【掛川城】へ籠城するのが精いっぱいでした。

すでに武田氏の侵略の可能性を察知していた氏真は、遠く越後の上杉氏と同盟を結んでいましたが、家臣の反乱にてこずっていた上杉謙信は動けません。

しかし、ここで今川軍を救援するために動いたのが北条氏でした。北条氏康の娘早川殿は氏真に嫁いでいましたが、武田軍の急進によって乗る輿もなく裸足で逃げ惑ったことを聞くや、氏康は激怒。軍勢を差し向けて武田軍に対峙させたのでした。

こういった北条氏の援軍や徳川軍との手切れなどがあったものの、武田氏はようやく駿河を手に入れることができました。しかし、こういった経緯がのちに武田氏にとって命取りになるのです。武田氏に対して不信感を抱いた北条氏が味方することはもはや二度とありませんでした。

甲相駿三国同盟が破綻したその後

北と西から挟撃を受けた今川氏真は、ついに降伏して北条氏の庇護下に入りました。次いで徳川氏の庇護のもとに置かれるなど流転を繰り返します。その後京都へ移り住んだ彼は、公家らと交流を深くし風流人として後半生を過ごしました。しかし今川の家は滅亡したわけではなく、最終的には徳川幕府傘下の格式高い高家として存続していったのです。

いっぽう駿河を併呑した武田氏は、信玄の死後に名跡を継いだ勝頼の代に最大版図を築き、名実ともに武田王国を繁栄させますが、運命の長篠合戦で無残な敗北を喫した後は滅亡への道を転がり続けます。1582年、織田氏による甲州征伐を受け、かつての同盟者だった北条氏からも攻撃を受け、勝頼は自害。嫡流が絶えてしまったため、傍流がわずかに幕臣として徳川幕府に仕えるのみとなりました。

関東の覇者として名を馳せた北条氏も、時勢を見誤ったあげく1590年に豊臣秀吉による小田原の役を招き、実質的に滅亡してしまいました。5代目当主氏直の赦免活動が実り、のちに河内狭山藩1万石の小大名として復活を遂げています。しかし北条氏が再び歴史の表舞台に登場することはありませんでした。

数か国を支配した強大な戦国大名であっても、時勢を読めなければあっけなく衰退してしまうという典型的な事例でしょうね。

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明石則実