甲相駿三国同盟に翻弄された姫たちの運命
それぞれの家に嫁いでいった3人の姫たち。同盟の破綻とともにその運命も流転していきます。でも彼女たちは政略結婚といえども、幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか。今に残されている文献や史料などによって、いかに彼女たちが愛されていたのかが垣間見えてくるのです。最後に姫たちのことをご紹介していきましょう。
北条氏政に愛された薄幸の姫【黄梅院】
武田信玄の長女だった黄梅院(おうばいいん)は、北条の御曹司だった氏政に嫁ぎました。甲斐から相模へ続く輿入れの行列は大変豪華なものだったらどうしく、いつまでも途切れることはなかったらしいですね。北条家での生活は、氏政が大変優しくしてくれていたようで、夫婦仲も誠に良く、3人の子供にも恵まれたとのこと。
ところが武田氏が同盟を破り駿河へ侵攻したことで、彼女の運命も変転します。信玄のやり方に怒った父氏康は、黄梅院を甲斐へ送り返してしまったのです。
氏政と離縁した黄梅院は、出家し鬱々とした生活を送りますが、わずか半年後に亡くなってしまいました。享年27歳。泣く泣く最愛の夫と子供達と離れなければならなかった黄梅院を不憫に思い、信玄は黄梅院という寺院を建立し、氏政もまた箱根の早雲寺に彼女の遺骨を分骨したのでした。
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最愛の夫と故郷をなくしても懸命に生きた姫【嶺松院】
今川氏真の妹にして、武田の御曹司義信の正室だった嶺松院(れいしょういん)。彼女に関する記録や史料はあまりに少なく、実際にはどのような女性だったのか詳しくわかっていません。しかし彼女がいかに夫に愛され、夫を愛していたのかは状況的に明らかになっています。
先ほど述べた武田家中の駿河侵攻を巡る派閥の争いの中で、義信は謀反の疑いをかけられて幽閉されてしまいました。この時に嶺松院と離縁させられたともいわれていますが、それでも彼女は3年もの間、甲斐に留まって夫の帰りを待っています。また、義信自身も嶺松院の他は側室も愛人も一切持たずに過ごしていました。
義信が亡くなった時に、ようやく兄の元へ帰る決意を固めますが、武田軍の駿河侵攻と重なってしまい、帰るはずの故郷すらなくしてしまったのでした。ようやく北条氏に保護されるのですが、愛する夫も故郷もなくし、傷心の嶺松院を気遣う北条氏政の書状が残っています。
「於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候。相当ノ普請罷越シ見届、可被申付候。
先日湯道具時可申遣ヲ失念候。西降ヲハ護摩堂ニ新可被申付候。恐々謹言。」
氏政
清水太郎左衛門尉殿
出典元 戦国遺文後北条氏編1010「北条氏政書状」より
(三島における御新造の宿のこと。義信夫人の宿は護摩堂に落着しました。相応の普請となるように直接見届け、指示して下さい。先日の夫人のための湯道具の時にお伝えするのを忘れていました。『西降』を護摩堂に新設するようご指示下さい。)
清水太郎左衛門尉とは、北条氏の重臣で伊豆の支配を任されていた清水康英のこと。駿河から逃れてきた嶺松院のために、宿の普請を命じていますね。それに湯道具(手桶や手ぬぐい)などの手配も指示しています。氏政が嶺松院のことを気遣う思いが伝わってくるのです。
嶺松院は出家し、その後1612年に亡くなったとされています。亡くなるまで夫の菩提を弔い続けたことでしょう。
夫としなやかに戦国を生き抜いた女性【早川殿】
同盟の一環として駿河の今川氏真に嫁いだのが、北条氏康の長女早川殿でした。この柔和で惰弱な戦国の世に似つかわしくない夫を支えたのが彼女だったのです。3人の姫の中で人生の終わりまで夫と添い遂げたのも彼女だけですし、まさに没落後のサクセスストーリーを演出したのでした。
駿河を追われ、北条氏に庇護されていた頃、兄の氏政が外交方針を変換して武田氏と同盟を結んでしまい、武田信玄の差し金で氏真が殺されそうになったことがありました。早川殿の機転で危うく難を逃れ、今度は徳川氏の庇護下に入ります。これが夫婦二人の運命を決めたものだといえるでしょう。
その後、京都へ移り住んで安穏な生活を送り始めた二人には、実は強力な武器がありました。今川家は連綿と続く伝統ある武家だったため、氏真自身も朝廷における儀礼や有職故実に精通していたのです。
そのことが秀吉や家康などの目に留まり、朝廷との交渉役になくてはならぬ存在となりました。また、江戸時代に入ると氏真の息子も高家旗本となり、武家の中でも特に格式が高い家だと尊崇を受けたのです。
氏真が柔和で、そして彼女が支えたからこそ、今川氏は江戸時代250年を生き抜くことができたのですね。
戦国の世のさまざまな人間模様
権謀術数渦巻く戦国時代、そこには様々な人間たちのドラマがあったはずです。戦いに明け暮れた殺伐とした中にあっても、そこに生身の人間たちが存在し、懸命に生きていたということを忘れずにいたい。そう思います。450年もの時を超えてもなお、人間の欲というものが変わることはありません。しかし過去に学ぶことはできますよね。