平安時代中期のキーワード:「国風文化」「藤原道長」「地方情勢」
平安時代の中盤に入ると、藤原氏による摂関政治が確立され、藤原氏の力はますます拡大していきます。権力が中央に集中したこともあって、地方の情勢の悪化が目立つようになったのもこの頃です。人口が増え、安定した食糧確保をしなければならないのに、肝心の農地や農民たちのことはほったらかし。これでは都の安寧もいつまで続くかわかりません。平安時代中期のキーワードに沿って、時代の流れを追いかけてみましょう。
国風文化:遣唐使を廃止して日本独自の文化の発展を
平安時代中期の大きな出来事といえば、なんといっても遣唐使の廃止でしょう。
社会科の授業で「白紙(894年)に戻そう遣唐使廃止」などと覚えた記憶をお持ちの方も多いでしょう。
廃止を進言したのは、学問の神様として知られる菅原道真です。
894年には第20回の遣唐使の派遣の計画が決まっており、菅原道真はメンバーのひとりだったのですが、なぜか中止すべきと言い出し、これ以降、遣唐使は派遣されなくなりました。なぜ遣唐使が廃止されたのか、はっきりした理由が記された記録は見つかっていません。
理由は定かではありませんが、この当時、唐王朝の勢力は弱まっており、国内が混乱していたことが理由ではないかと言われています。10数年後の907年に唐王朝が滅亡しているため、結果的には正しい判断だったといえそうです。
また、日本国内の文化や学問も成熟してきて、優秀な人材が育ってきていたので、もう、わざわざ危険をおかして海を渡る必要もないだろうと考えたとも言われています。
道真本人が行きたくなかったから……という可能性もありますが、実際のところはどうだったのでしょう。余談ですが、菅原道真は899年に右大臣にまでのぼりつめます。しかし901年、朝廷内の権力争いに敗れ、大宰府(現在の福岡県)に左遷。道真が再び京都の地に戻ることはありませんでした。
藤原道長:全ての権力を握りこの世の春を謳歌する藤原一族
平安時代を代表する人物と形容してもよいかもしれません。
藤原道長は藤原北家の血筋で、先ほど登場した藤原冬嗣から6代ほど後に藤原一族のトップに立った人物。この頃になると、藤原北家の人間が摂政か関白をやるのが当たり前になってきていて、道長の時代は、権力を持っているのはすべて藤原家の人間、という、向かうところ敵なし状態になっていました。
この世の春とはまさにこのこと。藤原一族の摂関政治最盛期を謳歌したのが藤原道長です。
向かうところ敵なし、と申しましたが、だからといって枕を高くして眠れたわけではありませんでした。敵は案外近くにいるもの。そう、藤原家同士で、争いあうようになってしまうのです。
藤原一族の多くは多産で、道長にも男の兄弟が大勢いました。道長は四男坊(五男との説もあり)。子供のころは出世街道から少し外れたところにいましたが、兄たちがこの世を去ったり、ライバルが失脚したり、時の天皇と外戚関係を築くことができたりと、運も味方していい感じです。
勢いに乗る道長は、こんな歌を詠んでいます。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
「この世界は私のためにある、あの満月のように足りないものなどない」というような意味だそうで、なんとも強気な歌。
しかし間もなく、道長は病に倒れ、この世を去ります。この後も藤原氏同士の争いも摂関政治も続きますが、その勢力には徐々に陰りが見えてくるのです。
地方情勢:天皇中心の国家体制の確立と地方政治の悪化
中央では日々、貴族たちによる権力争いが繰り広げられていましたが、地方の庶民の暮らしは決して豊かとは言えませんでした。
今も昔も、国を支えているのは税を納めている庶民たちのはずなのに、平安時代の庶民の暮らしを記した記述はとても少ないのです。
貴族たちは中央での暮らしにばかり気を取られて、地方統治がおろそかになっていたのでは、とも言われています。せっかく作った農作物が強奪されたり、地方の治安は徐々に悪化。農民たちは不安な日々を送っていました。
人口が増え、米や農作物の需要は日に日に高くなっているはずなのに、それらを作る農民たちを守ろうともしない中央の政治。いつまでこのようなことが続くのでしょうか。
そこで地方の農民たちは自衛を試みます。自ら武装し、田畑を守り、治安を維持することに努めたのです。やがて力の強い有力豪族が誕生。これが武士の始まりであると考えられています。
平安時代後期のキーワード:「荘園」「院政」「平家と源氏」
平安時代後期の特徴は、藤原氏の勢力の変化がポイントになってきます。藤原氏が身内同士で争い合いつぶし合うことで、新たな勢力が力をつけるスキが生まれたのです。そして時代は、新しい指導者を求めて大きく変化を遂げようとしていました。平安時代の後半から末期にかけての出来事を、キーワードに沿って見ていきましょう。
荘園:その農地は朝廷のもの?農民のもの?
荘園とは、簡単に言うと「私有地」のことです。寺社や貴族たちが個人的に持っている土地のことをいいます。
中大兄皇子・中臣鎌足らによる大化の改新(645年)の後、天皇を中心とした政治が確立。土地は耕している農民のものでもその地を治めている豪族のものでもなく、すべて朝廷(天皇)のものとされていました。農民たちは朝廷から土地を借り、農作物を作って税を納めていたのです。
農民の暮らしは非常に厳しいものでした。そのため、土地を放棄して逃げてしまう農民も。農民がいなければ土地があっても作物は実らず、税も集まりません。
そこで743年に墾田永年私財法という、開墾した土地はその人のものになる、という法律ができます。寺社や貴族たちはこぞって農民を雇い、土地を開墾して農地を増やしていきました。それが「荘園」です。
しかし、藤原氏をはじめ中央で権力を握った貴族たちが、自分たちに都合のよい法律を作って土地を奪い取ったり自分たちだけ税が免除されるようにしたため、荘園制度も傾きかけていました。