教養歴史

戦国時代を熱く生きたヒーロー!世渡り上手の伊達政宗の生涯は如何に

2-3父を殺したのは実は政宗だった?

幼いころから政宗のあるじとしての力を見抜き、何かと味方になってくれた父輝宗を殺したのが政宗だったという説があります。政宗は当時新しい武器だった鉄砲を使っての見事な戦術で、一目置かれる存在となっていました。

その時分に伊達に従うことを条件に、父輝宗の仲介によって領土を安堵された畠山義継がお礼に伊達家に来ていた時に、いきなり輝宗が拉致され人質になったのです。政宗がちょうど鷹狩りに出かけており、これは一大事と引き返しました。そして、義継の領土にいくと、父を盾に仁王立ちした義継が待っていたのです。

「これ以上近づくと、父上の命はないぞ!」というも、父輝宗は「わしの命より、伊達家を守れ!それこそが親孝行じゃ。」といいました。政宗は涙をぬぐい鉄砲隊に「撃て!皆殺しにするのだ!」と命令しました。と同時に義継は父輝宗を刺殺しました。もちろん、義継軍は一網打尽。全員死亡しました。狩りに出ていた政宗が武装した鉄砲隊を連れていたことはおかしいと、政宗の陰謀により父輝宗が死んだという説もあります。

2-4奥州の覇者となった政宗

畠山義継らを皆殺しにした一件から、周辺武将による伊達攻めが起こりました。畠山、佐竹、蘆名、二階堂が連合した南奥州諸侯連合軍は約3万の兵でした。政宗の兵はたった7千でした。4倍以上の兵力の差があり、どう見ても勝てるはずがありません。

政宗は左眼を閉じ、じっと考えました。連合軍の互いの信頼関係は弱いはず。中心を攻め散らして追い払い、その空きに撤退する策に出たのです。殿(しんがり)を務めた老臣・鬼庭左月斎を失い、政宗自身も矢玉を浴びるという危機的な状態でした。この、「人取橋の合戦(ひととりばしのかっせん)」を切り抜けた政宗は、さらに強くなりました

 

3.豊臣秀吉VS伊達政宗

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伊達政宗は、豊臣秀吉や徳川家康にも一目置かれる名武将です。下剋上の戦国の世を、「世渡り上手」といわせたほど、見事に走り抜けました。奥州の覇者となった、政宗の戦国大名としての功績を見てみましょう。

3-1豊臣秀吉の怒りを買っていた政宗

天正17(1589)年に23歳となった政宗は、会津の蘆名を滅ぼしました。東北の南部をほぼ手中に収めており、114万石を束ねるほどの大名となっていました。このころには、「奥州に伊達あり」と称されるほどの勢いだったのです。

天下統一を目前にしていた豊臣秀吉から再三手紙が届いていました。ここまで伊達の領地を広げるにあたり、知らないうちに秀吉の逆鱗に触れていたのです。政宗が攻め落とした大名の中に、秀吉の家来がいました。実は、秀吉に服従していない大名は関東の北条氏と政宗だけだったのです。

秀吉からの手紙の内容は、

「わしの家来となったものに危害を加えるとは何事!これからもわしに刃向かうつもりか、それともわしの家来になるべく参上するか、政宗殿の意志を示せ。返事を延ばせば、刃向かうものと考える。」

というものでした。

今までは、無視していたものの、今後はそういうわけにはいかないだろう。政宗は、できれば秀吉にとって代わることはできないかと画策していたという説もあります。無理ですよね~。

3-2覚悟を決めて秀吉の家来になる政宗

周りの情報を集めるうちに、秀吉の兵は20万あると聞き実力の違いを知りました。勝てるわけないと認識したのです。だって、政宗の兵はせいぜい2万人。秀吉は10倍の兵を抱えていたんですもの。

このころの、秀吉は政宗にブチ切れており、「政宗を成敗する」と息巻いていたとか。これはやばいと思った政宗は、秀吉の側近、前田利家や浅野長政らに、領地でとれる金や体の大きな馬などを献上し秀吉の怒りをとくことから始めました

やっと、秀吉の怒りが少しとけた時に、政宗は北条氏との戦い「小田原攻め」に参戦するよう命令されたのです。ここは知恵の見せ所。普通に会えば、見せしめに殺されてしまうという生死をかけた局面でした

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