室町時代日本の歴史

足利義満が金閣寺を建てた理由は?天皇位さえ狙った男の目論見

金閣寺を建てた足利義満の力は凄かった!

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公家と武家の頂点に立った足利義満の権力は大きく、その権力を使って私財まで膨らませていったのです。義満の野望は大きく、日本の国王とも名乗るようになっていきます。

天皇の位さえ狙ったと言われる義満の力

足利義満は一説によると、天皇の位までも狙っていたと言われています。すでに、天皇の家臣としては、他に並ぶ者はおらず、かつての摂政、関白を独占した平安時代の藤原氏のような存在だったのでしょう。しかし、藤原氏はあくまでも臣下として天皇にまでは取って代わることは考えませんでした。それに対して、義満の野望は膨らみ続け、自分が天皇になることを夢見たと言われています。

実際に、勘合貿易をおこなう交渉をした際には、中国明の皇帝に対して自分を日本の国王と名乗っていました。結果的には、天皇になることはできずに亡くなっていますが、最後まで権力は手放さなかったのです。

財力の源泉は倭寇を排除した勘合貿易だった

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南北朝を統一して権力を集中させた義満の財力の源泉となったのが勘合貿易でした。当時の日本と中国の間には、倭寇と呼ばれる水軍が力を持ち、貿易で思い通りにならない場合は、海賊となって中国船を襲ったり、沿岸地域を攻撃していたのです。そのため、日本と中国明との間は国交が途絶えていました。

しかし、足利義満は、1401年に明に使節を送り、国交を回復させるとともに、日本と明との貿易には勘合札の割符を持った者だけがおこなえるようにしたのです。それによって、倭寇をおこなう水軍は、貿易ができなくなり、しかも幕府の取り締まりもあって、衰退していきます。

一方、勘合貿易によって、義満には莫大な貿易による財が蓄積され、北山文化が花開きました。

なぜ室町幕府は義満の後に衰退していったのか_守護大名の台頭

しかし、室町幕府の頂点は、足利義満の時代で終わってしまいます。その背景には、有力守護大名たちの権力争いがありました。すでに南北朝が始まった当時から、有力守護大名たちは力を蓄え、尊氏、義詮の時代には幕府の言うことを聞きません。しかし、義満の時代には、それらの有力守護大名たちの権力争いに逆に介入することで、権力を集中させることに成功したのです。

しかし、義満が亡くなると、それらの守護大名たちは、再び権力を争うようになります。幕府の言うことを聞かなくなり、逆に足利将軍は彼らの介入を受けるようになってしまったのです。

関東管領による権力の分散化_関東から戦国時代は始まった

南北朝時代に置かれた関東管領職には、上杉氏が就いていました。当初は、幕府が監督して争いは逆に義満の介入の機会になっていました。しかし、義満が亡くなると、関東管領職をめぐって関東の有力守護大名たちが対立して戦いが起こり、幕府の権力は行き届かなくなります。そして、常に争いが起こる状況の中で下克上もおこり、戦国時代へと突入していったのです。

権力争いは関東管領職だけでなく、室町幕府の中でも生じて、ついには応仁の乱へと突入することになりました。

それでも、足利氏の室町幕府は、織田信長によって足利義昭が追放されるまで100年以上続いたのです。ただ、あの足利義満の時代のような華やかで権力を集中させた将軍は現れませんでした

権力と富の象徴として建てられた金閣寺は今も輝いている

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足利義満の権力の象徴として建てられた金閣寺は、1950年に焼失しましたが、5年後には再建され、現在でも、京都でも一番の観光スポットとして有名です。それは、やはり金箔に彩られた金閣寺舎利殿の美しさにあると言えます。

しかし、その輝きは、足利義満の権力野望の象徴であり、それが今も残っていることには驚かされますね。

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