金閣寺舎利殿はなぜ金箔を施されたのか
金閣寺の舎利殿には、一面金箔が施され、見る人の目を驚かせますが、なぜ金箔が施されているのでしょうか。
実は、金閣寺が建てられた1397年には足利義満は、実際にはすでに1394年に将軍職を息子の義持に譲り、引退していましたが、実権は持ったままでした。いわゆる院政をしていたのです。そのため、院政をするにふさわしい場所を探して、現在の金閣寺のある北山第を金閣寺に作り直し、政治の中心にしました。
その政治権力の象徴が舎利殿であり、金箔で覆うことで、権力を誇示したと言われています。それこそが金閣寺を建てた理由だったのです。
金閣寺を建てた足利義満が力を貯えた背景
このように足利義満は、室町幕府でも最大の権力者となり、豪華な金閣寺を建設できた背景には何があったのでしょう。
やはり、それは生まれながらに将軍として育ち、有力守護大名たちを上から目線で見て争いを仲裁したり、介入したことによって、彼らを味方につけたことが大きかったのです。それによって南朝に圧力をかけ、最終的に南北朝を解消させたことによってさらに大きな権力を手に入れたと言えます。
建武の中興を制した足利尊氏の幕府の力はまだ弱かった
後醍醐天皇の建武の中興と呼ばれる時代は、鎌倉幕府を打倒した天皇中心の政治への復活を目指しました。しかし、すでに武士の世になっており、その武士層の支持を得られなかった後醍醐天皇は吉野に逃れます。一方、鎌倉幕府打倒の立役者だった足利尊氏は征夷大将軍となって新たな天皇が立て、南北朝時代に突入したのです。しかし、当時の足利将軍の尊氏はまだ全国の武士を統合できるだけの力がなく、吉野に移った後醍醐天皇率いる南朝に対して北朝と言われていました。
足利尊氏の時代には、征夷大将軍になったとは言え、周りの有力守護大名たちはもともと同僚だったのです。そのために、将軍と言っても有力守護大名に気を使いながら、政治をおこなうしかありませんでした。しかも、吉野には南朝の天皇がおり、そちらに味方する楠木正成や新田義貞などもいたために、大きな権力を持ち得なかったのです。
しかし、足利義満が将軍になる頃になると、時代が変わっていきます。
南朝には楠木正成も新田義貞もいなくなった
後醍醐天皇の建武の中興を成し遂げた功労者には、足利尊氏だけでなく、力を持つ楠木正成や新田義貞という武将がいました。彼らは、後醍醐天皇に従い、当初は南朝方として、北朝の足利将軍に対抗して戦(いくさ)をしていたのです。特に、後醍醐天皇一筋の忠臣と言われた楠木正成の存在は大きいと言えました。そのため、将軍足利尊氏や2代目将軍義詮は、完全に武家社会を支配することはできず、有力守護大名たちを頼らざるを得なかったのです。
しかし、時代が経つにつれ、強敵であった楠木正成や新田義貞は亡くなり、彼らの息子の代になっていきました。楠木正成は1336年、新田義貞は1938年に戦死しています。一族はその後も南朝方として戦いを継続しましたが、彼らのようなカリスマ性はありませんでした。
足利義満が生まれた1358年には、既に二人は亡くなっており、南朝方の勢いは失われつつあったのです。
多くの武士、大名が北朝の足利将軍についた
足利義満が将軍になったのは、1368年であり、まだ10歳の子供の時でした。しかし、義満が20歳を越えるころからは、それまで力を誇示していた有力守護大名たちを懐柔したり、滅ぼしたりして、力を蓄えるようになります。そして、1383年には、征夷大将軍と太政大臣を兼務し、公家と武家の両方の頂点に立ち、実質的にも当代一の権力者に上り詰めたのです。武家の統領として有力守護大名を従わせるようになり、ついに南北朝の統一を実現しました。
南朝を制圧した義満に権力が集中した
南北朝を統一したことによって、政権基盤は盤石となり、政治権力は義満に集中するようになります。義満は、その権力を背景に、壮大な金閣寺の建設をおこなったのです。将軍職は息子の義持に譲り、隠居とはなっていたものの、その権力はさらに強まったと言えます。