幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末の薩摩藩を導いた国父「島津久光」の生涯とは?わかりやすく解説

卒兵上京と寺田屋事件

1860年、日米修好通商条約を締結し、安政の大獄で反対派を弾圧した大老井伊直弼が桜田門外の変で倒されました。その2年後の1862年、朝廷と幕府の宥和で危機を乗り切ろうとし、公武合体を進めた老中の安藤信正が坂下門外の変で失脚。幕府の権威が大きく低下していました。

政局が混乱する中、久光は兵を率いて京都に向かいます。京都に到着した久光は藩内の志士が寺田屋に集まり関白や京都所司代を襲撃しようとしていることを聞きつけました。

久光は、彼らに翻意を促すため剣の腕がたつ者たちを寺田屋に向かわせます。しかし、有馬新七ら寺田屋にいた志士たちは久光の使いの説得を聞き入れず斬りあいとなりました。寺田屋での騒動で有馬新七ら6名が斬られ、2名は切腹。この事件を寺田屋事件といいます。

文久の改革

寺田屋事件で藩内の志士を制圧した久光は公武合体運動をすすめるため朝廷に働きかけます。その結果、朝廷は幕政改革を要求するための勅使派遣を決定しました。久光は勅使大原重徳とともに江戸へと出発します。

江戸に到着した勅使は一橋慶喜を将軍後見職とすることや松平慶永の政事総裁職就任、会津藩主松平容保の京都守護職就任などを要求。また、参勤交代を3年に1度に緩和することや洋式陸軍の編成なども求めます。

朝廷や諸藩から改革を求められるなどと言うことは幕府にとって前代未聞のこと。かつてであれば、幕府は薩摩藩の取り潰しや朝廷への露骨な圧力などを行うような内容ですが、安藤信正失脚後に幕政をリードできる指導者はいません。しぶしぶ、勅使や久光の要求を受け入れ、改革を実行しました。これを文久の改革といいます。

生麦事件と薩英戦争

目的を達成した久光は江戸から京都に向けて帰還します。東海道を京都に向かって移動している途中で事件が起きました。横浜の開港場に近い生麦村でイギリス人が馬に乗ったまま久光の行列に乱入したのです。

イギリス人たちは薩摩藩士が制止するのを無視して久光の駕籠付近まで到達。薩摩藩士数人がイギリス人たちの無礼をとがめて切りつけ、一人を殺害しました。イギリスは犯人引き渡しを要求しましたが薩摩藩は拒否します。これが生麦事件です。

薩摩藩は犯人引き渡しだけではなくイギリスが要求した賠償金も拒否したことから関係が悪化。1863年7月、事件は薩英戦争に発展。イギリス艦隊が鹿児島に襲来しました。薩摩藩は鹿児島城下を焼き払われますが、イギリス艦隊の旗艦も被弾。艦長が戦死するなど大きな損失を被ります。

公武合体の推進と挫折

薩英戦争後の1863年8月、薩摩藩は会津藩とともに過激な尊王攘夷を訴える長州藩を朝廷から排除することを画策します。尊王攘夷派の言動に批判的だった孝明天皇は薩摩・会津の動きを支持。長州藩や長州に味方する尊攘派の公家を京都から追放しました。八月十八日の政変です。

久光は10月に上洛し、有力諸侯を朝廷の会議である朝議に参加させるよう提案。一橋慶喜や松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保らをメンバーとする参預会議が発足し、自身もその中に加わります。

しかし、参預会議は横浜鎖港問題で慶喜と久光らの間で対立が起きました。両者の溝は全く埋まらず、参預会議は機能しなくなってしまいます。1864年3月、久光は参預を辞任。家老の小松帯刀や西郷隆盛を京都に残して鹿児島に戻ってしまいました。

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