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幕末の薩摩藩を導いた国父「島津久光」の生涯とは?わかりやすく解説

維新と島津久光

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公武合体策が行き詰まった薩摩藩は長州藩と薩長同盟を締結。公家の岩倉具視や長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らとともに討幕へとかじを切ります。戊辰戦争の終結後にできた新政府は久光の考えと全く違う方向性で国づくりを目指しました。戊辰戦争の前後から明治維新にかけての久光の動向を見てみましょう。

四侯会議と藩論転換

久光が鹿児島に帰った後も、京都では政局が激しく動きます。1866年に大久保利通・西郷隆盛らが主導して薩長同盟を締結し長州藩に協力。薩摩の支援を得られなくなった幕府は第二次長州征討に失敗。14代将軍家茂の死もあり、幕府の凋落ぶりを世間に示してしまいました。

1866年12月に孝明天皇が急死し、明治天皇が即位すると薩摩・長州などの討幕派と15代将軍となった徳川慶喜との間で駆け引きが繰り返されます。1867年5月、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城らが京都で会談する四侯会議の開催が決まり、久光も上洛しました。

会議では長州藩の名誉回復と兵庫開港問題が話し合われますが、ここでも久光と慶喜の意見が対立。結局、慶喜の意見が通り兵庫開港のみ決定されました。四侯会議の失敗を受け、薩摩藩の重臣たちは討幕へと藩論転換することを確認します。久光は外国の武力介入を心配しましたが、黙認せざるを得ませんでした。

明治新政府への久光の不満

四侯会議の終了後、病身だった久光は鹿児島に戻ります。1867年10月14日、岩倉らの工作により薩摩・長州両藩に討幕の密勅が下されました。この密勅は同日に慶喜が行った大政奉還によって効力を失いますが、朝廷は久光の上洛を命じます。病となっていた久光は上洛せず、藩主忠義が藩兵3,000を率いて上洛しました。

その後、薩摩藩・長州藩を中心とした部隊は鳥羽伏見で旧幕府軍と激突。戊辰戦争が始まりました。戦局は薩摩・長州を中心とする新政府軍の優位に展開します。

戊辰戦争の勝利によって成立した新政府は1869年に版籍奉還、1871年に廃藩置県を断行。久光はこのことに対し激しく怒り、大久保や西郷を強く批判したといいます。その後、久光は左大臣に任じられますが政策決定からは排除されてしまいました。

晩年の久光

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久光は明治政府の進める政策に批判的でした。廃藩置県の際は反対の意を示すため、自邸で一晩中花火を打ち上げさせます。また、1874年には旧制復帰の建白を行いました。私生活でも髷を切らず、廃刀令にも反発。生涯、帯刀をつづけます。このイメージから保守的な頑固者の印象が強いですが、幕末の政局をのりきり、藩をまとめ続けた点は高く評価するべきではないでしょうか。

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