幕末日本の歴史江戸時代

最大で最後の士族反乱「西南戦争」の背景・経緯をわかりやすく解説

警視庁抜刀隊の投入と田原坂突破

政府軍が田原坂を突破できなかった要因の一つに薩摩兵らが行う抜刀白兵戦がありました。政府軍に比べ弾薬が少なく、銃の性能でも劣る西郷軍は薩摩士族らを主体とした抜刀戦術によって対抗します。

銃撃戦では性能の良い銃を持っている政府軍に分がありますが、接近戦となると刀を振るって戦う経験を積んだ士族たちが有利でした。白兵戦の経験が少ない政府軍は薩摩兵の突撃に逃げまどいます。

これに対抗するため、政府軍は剣術に秀でた警察官(士族が多い)を選抜し警視庁抜刀隊を編成。薩摩兵の抜刀戦術に対抗させました。抜刀隊による切り込み戦術により、西郷軍の白兵戦での有利は崩れます。

3月20日、政府軍は豪雨に紛れて田原坂を強襲。ついに、西郷軍は田原坂を放棄して撤退しました。この戦いで篠原国幹が戦死します。田原坂の敗北後、局地的に西郷軍が勝利することはあっても戦争全体で見れば政府軍が有利となりました。

城山決戦と西郷の死

田原坂で激闘が繰り返されているころ、政府は西郷軍の背後を突くため黒田清隆中将率いる一軍を編成。八代方面に上陸し西郷軍の背後を脅かしました。西郷軍は熊本城の包囲を解き、熊本城の東方に布陣。関ヶ原以降最大規模の野戦である城東会戦が行われます。2日にわたる戦闘で西郷軍は後退しますが、政府軍も大きな犠牲を払いました。

その後、西郷軍は熊本南部の人吉や宮崎県などで戦闘を継続しますが、徐々に政府軍に追い詰められます。政府軍は鹿児島を占拠し西郷軍の退路を断ちますが、1877年9月1日、西郷軍が再び鹿児島を制圧。しかし、政府軍も鹿児島へと集結し、西郷軍がたてこもる城山を包囲しました。

西郷軍は川村純義の降伏勧告や山県有朋が西郷に宛てた自決をすすめる書状にも返信せず籠城を継続します。9月24日、政府軍は城山総攻撃を開始。西郷自身も被弾し動けなくなりました。西郷は切腹。介錯した別府晋介も自刃します。ここに、西南戦争は終結しました。

西南戦争の影響

最大最期の士族反乱である西南戦争は日本のその後の歴史に大きな影響を与えました。維新の英雄である西郷ですら倒せなかった明治政府を倒そうというものは、この後、出現しません。武士中心で成し遂げられた明治維新でしたが、西南戦争は武士たちが歴史を動かす時代の終わりを示したのです。

自由民権運動の活発化

image by PIXTA / 6665938

西郷とともに明治六年の政変で政府を去った板垣退助は民撰議院設立建白書を出し、政府に対して国会の開設を求める自由民権運動を始めます。運動の当初は士族が中心でしたが、立志社や愛国社の活動が活発化すると豪農や府県会議員らが自由民権運動に参加。

国会期成同盟の結成に発展し、政府も板垣らの運動を無視できなくなります。板垣は自由党を結成、明治十四年の政変で政府を去った大隈重信は立憲改進党を結成し政府に国会開設と憲法制定を迫りました。

自由民権運動は一時期、過激化して激化事件が頻発。運動の力が落ちますが、大同団結運動で再び盛り上がりを見せ、大日本帝国憲法の制定や衆議院議員総選挙初期議会へと自由民権の流れが引き継がれます。武力で倒すことができない明治政府も自由民権運動を弾圧して消滅されることはできなかったのです。

政府財政の悪化と三菱の成長

西南戦争は創設間もない明治政府にとって巨額の財政支出を強いる戦争でした。政府は膨大な戦費を賄うため大量の紙幣を発行。紙幣価値が下落し物価が高騰するインフレを引き起こしてしまいました。政府は巨額の財政赤字を解消するため、増税や政府の支出を減らす緊縮財政を実施。1885年にようやくインフレを抑え込みました。

西南戦争で急激に成長を遂げたのが岩崎弥太郎率いる郵便汽船三菱会社(三菱)です。岩崎は政府の徴用命令を受け定期航路の運航を停止。所有していた38隻を政府軍の輸送にあてました。三菱はこの軍事輸送で巨額の利益を上げ、のちの三菱財閥の基礎を築きます。この時得た利益で船をさらに買いました三菱は61隻もの船を所有し、日本の船の総トン数のうち73%を占めるまでになります。

西南戦争は武士の終わりを告げる戦争だった

image by PIXTA / 33814582

西南戦争は武士の時代の終焉を告げる戦いでした。専門的な戦闘集団である武士が農民や町民主体の徴兵軍隊に敗れた瞬間でもあります。西郷隆盛は西南戦争で自刃。長州の木戸孝允は同じ年に病死。政府を率いた大久保利通は翌1878年に紀尾井坂の変で暗殺されます。維新に多大な功績があった維新三傑の死は新たな時代の到来を予感させるものだったのかもしれません。

1 2 3
Share: