幕末日本の歴史江戸時代

最大で最後の士族反乱「西南戦争」の背景・経緯をわかりやすく解説

西南戦争直前の鹿児島県の状況

明治六年の政変で帰郷した西郷は旧鹿児島城に私学校を設立します。私学校は幼年学校・銃隊学校・砲隊学校からなり、旧士族たちに漢文の素養や軍事教練を施すことを目的としました。

私学校の分校は鹿児島県内の各地につくられます。私学校の設立に鹿児島県令の大山綱良は全面的に協力。私学校に対して県の予算を供出しました。大山は中央集権を進めようとする明治政府の意向に従順ではありません。

こうした状況に苛立った木戸孝允らは大久保利通に迫り鹿児島県政改革案を受諾させますが遅々として進みませんでした。その間も私学校党は鹿児島県で勢力を拡大。あたかも、鹿児島県が独立国のような姿勢を示します。

西南戦争の経緯

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廃刀令で誇りを奪われ、秩禄処分で経済的に追い詰められた士族たちは各地で反乱を起こしました。佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱と西南諸藩で起きた士族反乱はことごとく鎮圧されます。人々の目は九州最南端で隠棲する明治維新の元勲、西郷隆盛に注がれました。暴発寸前の旧薩摩士族が激発するきっかけとなったのは西郷暗殺計画と政府による弾薬の運び出しです。ここから最大最後の士族反乱である西南戦争が勃発しました。

きっかけとなった西郷暗殺計画と弾薬運び出し

1877年1月、東京警視庁に勤めていた中原尚雄らは同僚24名とともに鹿児島県に帰郷しました。中原らは大警視川路利良から私学校や西郷隆盛の動向の内定を命じられたといいます。中原らの帰郷を不審に思った私学校党は彼らを監視し、中原らの目的が西郷暗殺にあるとの情報を得ました。

1月29日、草牟田にあった陸軍火薬庫から政府が弾薬などを運び出そうとしたことをきっかけに、私学校生徒が草牟田の火薬庫を襲撃。弾薬を強奪しました。火薬庫襲撃の報を聞いた西郷は直ちに鹿児島へ向かいます。

2月3日、中原が捕らえられ厳しい拷問の末、自分の鹿児島帰郷が大警視川路利良の指示で西郷暗殺を目的としたものだと自供しました。政府による無断での弾薬運び出しや西郷暗殺未遂などの情報が知れ渡ると私学校生徒は激しく怒り、暴発寸前の状態となります。

私学校での大評定

1877年2月6日、鹿児島城内の私学校本校で幹部ら200人近くを集めた大評定が開かれました。別府晋介らは政府に責任を追及するため東京へ軍を進めるべきだと主張。永山弥一郎は西郷ら代表者三名が上京して政府を詰問するべきだといいます。

永山の意見に対しては、西郷らが途中で暗殺されるリスクがあるとして反対意見がでました。ほかにも、代表者3名が少数の兵を率いて上京する案や京都に行幸中の明治天皇に直接上奏する案など、議論が百出しなかなかまとまる気配がありません。

結局、篠原国幹桐野利秋らが全軍出兵の方向で議論をまとめます。同日、私学校本校に本営を設置。2月8日には部隊編成が開始されます。こうして、鹿児島県士族は明治政府に反旗を翻しました。

西郷軍、鹿児島進発と政府の対応

2月14日、私学校本校で西郷隆盛による閲兵式が行われているころ、先発隊は熊本方面に向けて進軍していました。2月15日、60年ぶりの雪が降りしきる中、西郷軍は本格的に熊本方面への進軍を開始します。

西郷軍進発の情報を得た明治政府は2月19日に征討の詔を発布。迎撃態勢を整えます。明治政府の素早い反応を可能としたのは電信などの近代的な通信網があったからです。明治政府は戊辰戦争の総司令官も務めた有栖川宮熾仁親王を総司令官任命。実質的な司令官である参軍には陸軍中将山県有朋と海軍中将川村純義の両名をあてます。

西郷軍は鹿児島県士族と各地で呼応した士族、あわせて30,000人余であったのに対し、明治政府軍は兵員52,000人弱、巡査6700人でほぼ60,000人に及びました。かくして、最大最後の士族反乱である西南戦争がはじまったのです。

熊本城攻防戦と田原坂の戦い

西郷軍は九州における明治政府の軍事拠点であった熊本鎮台がおかれた熊本城を目指します。西郷軍の先発部隊は2月20日に熊本城付近の川尻に到達。熊本鎮台による偵察部隊と西郷軍の先鋒がぶつかり、遭遇戦を展開しました。

2月21日、西郷軍は熊本城を包囲し強襲して攻め落とすことを決定します。2月22日、西郷軍による熊本城攻撃が実施されましたが熊本鎮台指令谷干城の指揮の下、熊本鎮台兵が善戦。熊本城を早期に落とすことは不可能でした。一方政府軍は次々と九州に上陸。徐々に西郷軍を数で圧倒していきます。

政府軍は包囲されている熊本城を救援するため田原坂方面へ軍を向けました。西郷軍も田原坂・吉次峠のラインで防衛線を構築し迎え撃ちます。政府軍は田原坂方面で連日攻勢に打って出ますが、西郷軍の頑強な抵抗により田原坂を突破できません。政府軍にとって「越すに越されぬ田原坂」となりました。

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