日本の歴史江戸時代

江戸時代の鎖国ー唯一の貿易窓口「出島」をわかりやすく解説

出島による貿易はなぜ必要だったのか

日本は、島国であり、周囲は海で囲まれ、非常に海岸線は長く、幕府だけで全国の港の管理をすることはできません。徳川幕府は、武家諸法度を出したり、江戸城や多く河川工事に各大名に参加させて散財させて、大名に対する締め付けをおこないました。その一貫として、鎖国令の徹底を各藩に委ねたのです。幕府の締め付けや監視は厳しく、各大名が、外国との交易を厳しく取り締まった結果、清のように実態として鎖国令が行き渡らない形にはなりませんでした。

ただし、初期の徳川幕府は、海外との交易を絶つことによって、世界の文明から取り残されることに対して不安を覚え、結果として、出島による貿易を継続させることになったのです。しかし、時代が経過し、長い間鎖国をしたことで当初の目的は見失われます。

蘭学の普及が広がらないように幕府が抑制

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徳川幕府は、出島を作ってオランダとの交易を通じて、ヨーロッパの実情や新しい文明を手に入れられましたが、江戸時代中期以降、幕府は国内では蘭学などを抑えようとしました。多くの蘭学者が生まれましたが、多くは幕府によって抑圧されていたのです。

特に、日本の周辺に外国船が近づくようになる幕末近くになると、締め付けは厳しくなりました。渡辺崋山などの蘭学者は捕まったり、オランダ人の医師であったシーボルトなどは日本の地図を持ちだそうとした罪で国外追放になったのです。

鎖国の崩壊と開国による貿易再開はこうして起こった

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18世紀末になると、日本の近海には外国船が近づくようになります。早くも1892年には、ロシアのラスクマンが蝦夷地と言われた根室に来航して、漂流民を送り届けるとともに通商を求めてきたのです。それ以降も、19世に入ると、ロシア、イギリス、アメリカなどの船が交易を求めて訪れるようになります。イギリス船などは村を襲って食料や薪などを奪う事件(フェートン号事件)をおこしました。そのため、徳川幕府は、1825年に異国船打ち払い令を出して、外国船が来ても追い払うように命令を出して、鎖国を維持しようとしたのです。

江戸幕府に衝撃を与えたアヘン戦争での清の敗北

1842年にアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことが伝えられ、幕府は強い衝撃を受けます。急いで、異国船打ち払い令を緩めて、漂流船が現れた時には、燃料や食料を提供するようにしたのです。その後も、オランダ、アメリカなどが正式な交易をおこなうように幕府に要求しますが、幕府は丁重に断っていました。

ペリーの黒船の来航による日米和親条約による開国

幕府の姿勢を打ち破ったのが、ペリーの黒船の来航でした。ペリーは4隻の黒船の軍艦を率いて、威容堂々と東京湾の入り口に姿を現して、アメリカ大統領の親書を渡して開国を迫ったのです。これまで見たこともなかった巨大な軍艦が4隻も現れて幕府老中はうろたえました。取り敢えず、1年後に返事をすることで引き取ってもらったのです。その間に、幕府は、京都の孝明天皇に開国のお伺いを立てたり、諸大名の意見を聴いたりしました。しかし、これは、諸大名に強権で知られた幕府の弱体化が知られることになってしまったのです。

そして、翌年に再びペリーが7隻の軍艦を引き連れて来航すると、幕府は耐えきれず、ついに日米和親条約を結んでしまいます。その結果、アメリカだけでは済まなくなり、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ばざるを得なくなり、日本は開国に踏み切ったのです。220年以上続いた鎖国令は廃止されました。

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