日本の歴史江戸時代

江戸時代の鎖国ー唯一の貿易窓口「出島」をわかりやすく解説

バテレンと言われたキリスト教宣教師の影響力を恐れた江戸幕府

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ポルトガルは、すでに織田信長の時代からバテレンと呼ばれた宣教師を日本国内に送り込み、キリスト教の信者を増やしていました。当初、信長は腐敗したり、自分に抵抗してくる仏教宗派に対抗させるために布教を許可したのです。

しかし、キリシタンと言われるキリスト教信者は、大人にも子供にも人気になり、増加を続けました。大名でも、高山右近などのように有名なキリシタン大名も現れます。キリシタンたちは主君よりもイエス・キリストや神を最上のものとしており、支配者層にとっては武士社会の秩序を脅かす存在になり、すでに豊臣秀吉は禁教令を出していました。ただ、この禁教令は緩いもので、キリシタンは徳川幕府の江戸時代になっても増え続け、一つの勢力となっていったのです。

そのため、3代将軍徳川家光は禁教令を出すとともに、宣教師を送り込んでくるポルトガルの来航を禁じるようになります。1635年には日本人の渡航を禁止し、39年にはポルトガルの来航を禁止したのです。

キリスト教禁教令と島原の乱

これらの背景には、キリシタンの反抗が盛んになったことがありました。特に、1637年に始まった島原の乱は、天草四郎時貞を中心としたキリシタン勢力の大規模な一揆であり、島原の原城に立て籠ったキリシタンを制圧まで5ヵ月がかかっています。そのために、徳川家光は、禁教令をより厳しくするとともに、ポルトガルの来航を禁止したのです

島原のキリシタンたちはそれでも隠れキリシタンとして明治時代に認められるまで、生き抜いたと言われています。その遺物は2018年に世界遺産として登録されたのは有名ですね。

鎖国へ決断した3代将軍徳川家光

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1623年に将軍職を継いだ家光は、積極的に鎖国に向けて命令を出します。1633年には奉書船以外の渡来を禁じました。奉書船というのは、御朱印船と同じで、貿易のできる商人を大きく制限したのです。

それ以降も、順次命令を出して、ついに1641年に長崎に出島を作って、出島以外ではオランダ船と中国船も来航を禁止しました。

これによって日本の鎖国は完成したのです。

それでも長崎の出島では中国とオランダとの貿易は続いた

従って、徳川幕府によって鎖国は完成しましたが、それでも長崎の出島には、中国とオランダ商館が立ち並び、交易は続けられたのです。そのため、日本では、蘭学と言って、オランダ語での欧州文化の研究がおこなわれ、そこから解体新書など、ヨーロッパの近代科学などが入ってきました。

出島による貿易はなぜオランダに許されたのか

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ポルトガルが日本に来航できなくなったのには、二つの理由がありました。一つは、既に記載したようにバテレンと呼ばれた宣教師たちを送り込んで、キリスト教、それもカトリック教会の布教をおこない、武家社会の秩序を壊そうとしたことでした。

もう一つは、ヨーロッパ自身に理由がありました。それは、宗教改革や三十年戦争がヨーロッパでおこり、同じキリスト教でも、カトリック派とプロテスタント派に分かれて戦っていたのです。キリスト教の古いカトリック派は、ヨーロッパのイギリス、フランス、オランダなどの新興国をプロテスタント派に奪われました。その失地回復のために、アジアに布教活動を強めたのです。有名なフランシスコ・ザビエルもカトリック系の宣教師でした。

カトリック派の国であるポルトガルやスペインは、そのため、アジアで宣教師を積極的に応援して、キリシタンの増加につなげていたのです。それに対して、オランダは、17世紀前半までは、宗主国であるスペインと対立してまだ独立していませんでしたが、商業が盛んなプロテスタント派の国でした。交易のみで、布教活動はほとんどおこなわなかったのです。

そのため、オランダは、徳川幕府から唯一の日本との交易が認められたヨーロッパの国となりました。

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